例の引用

 前にも何度か引用したことがあるが、戦前のチェコの作家、カレル・チャペックにこんな文章がある(「未来からの手紙」カレル・チャペック著、飯島周編訳、平凡社ライブラリーISBN:4582761593


わが国では好んで次のように言われる――「われわれ、フスの、ジシュカの、スメタナの民族――われわれ、コメニウスの民族」。しかしドイツ人たちも同じように言っている――「われわれ、ゲーテの、カントの、ビスマルクの、その他誰やそれやの民族」。「われわれ、ゲーテの民族」だって! きみは、自分がゲーテのような人だと書いたり言ったりするのか? きみはかれとなにか似た所を持っているか、きみは賢明で人間的なのか、フランスを愛しているか、詩を書いているか、そして世界に模範を与えているか? 「われわれ、シラーの民族」だって! だが、きみはシラーと共に「暴政に対抗し」声を大にして叫ぶだろうか、暴君にたいして「陛下、思想の自由をお与え下さい」と要求するだろうか? 「われわれ、カントの民族」だって! だがきみは、カントのように、人間の中に目的を見て、手段はけっして見ないでいるだろうか? ゲーテはいた、カントはいた、そしてさらにわたしの知らぬ他の人たちもいた。だが、それがきみの利用できる美徳であり利点であって、きみはそれによってなにか偉大になり、なにかよりよきものになっているだろうか? きみは文化的で偉大で、人間的で世界的だろうか、きみ以前に誰かがそのようだったからという理由で?


 文化・伝統について、自慢げに言ったり書いたりする人に対しても、同じようなことを感じる。


 日本の文化なり、伝統なり、そこから生まれる作品なり、行為なりに愛情を感じるならそのまま愛せばよいと思う。ただただ愛していればよいのであって、自慢したり、何か他の目的に利用したり(5/18付記〔言葉足らずでした〕:実は大して親しんでもいないのに政治的な目的に利用したり)するのは、下品だと感じる。


 海外に行くと、チャペックがやっつけている類の、変な自慢をしがちになる。
 自分の存在を心細く感じて、虎の威を借りたくなるからかもしれない。自分を頼りなく感じると、頼れるものがほしくなる。


 次の山下洋輔の文章も、何度か引用した覚えがある。文化・伝統や誇りについてとはちょっと違うけれども、関係はある。


 まだ東欧諸国が社会主義体制だった頃の、東ドイツでの演奏旅行についての文章だ(「ピアニストを二度笑え!」山下洋輔著、新潮文庫ISBN:4101233047)。


国境での東側国の係官というのは、どれもこれも実にまあキビシイというかキチガイのような人達が多く、いつも通るたびにもう二度と来るものかと思う。しかし、入ってみると中の人々は皆普通の人間であり、中には友達になってしまう程いい奴もいる。当り前だが、東側といわずどの国にもちゃんと気の合う人間は住んでいるし、同時に、絶対に話もしたくない、出来ることなら会った途端にパイルドライバーとアイアンクローを両方一度にかけてやりたい、という種類の人間もいる。


 ひとつの国といっても、中はいろいろだ、とまあ、簡単に言ってしまえば、そういうことだ。
 それをなぜだかいっしょくたにしてしまう人が多い。


 今、引用したふたつの文、とても大事なことを書いている。珍しく真面目にそう思う。


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「今日の嘘八百」


嘘百二十六 ニッポン、サイコー! ヒュー、ヒュー!!