ジャズピアニストの山下洋輔の説(あるいは、酒場で生まれた共同アイデアかもしれない)では、生物というのはウケを狙ったやつが進化するのだそうだ。
ウケを狙って陸にあがってみせたやつが両生類になった。ウケを狙ってのたくってみたやつが蛇になった。ウケを狙って鼻を伸ばしてみせたやつが象になった。ウケを狙って後ろ足で立ってみせたやつが人類になったという。
これは凄い説だ。
ゴキブリはウケを狙ってソソソソと這い回り、ナマコはウケを狙って海底にごろんと転がり、マンボウはウケを狙って3億もの卵を産んでいるわけだ。
泣きながら産卵するウミガメももちろん、ウケを狙っている。新派の流れの芸人なのだろう。
世界はウケと芸人で満ち満ちているのである。
一方、立川談志によると、「おれはこれでいいんだ」と決めてかかったやつがそうなるんだそうだ。
鯨は陸生のほ乳類が海に戻ったわけではなくて、最初から「おれはこれでいいんだ」と決めてかかって、ああやって泳いでいる。ナマケモノは「おれはこれでいいんだ」と決めてかかって、ナマケている。カンガルーは「おれはこれでいいんだ」と決めてかかって、飛び跳ねている。
その伝で言うと、人間は「おれはこれでいいんだ」と決めてかかって、悩んでいるのかもしれない。
進化論の面白いところは、しばしばそれを語る人の考え方や好み、人となりが表れるところだ。
山下洋輔はいかにも山下洋輔らしい進化論を語るし、立川談志はいかにも談志らしい進化論(進化しない論か?)を語る。
わたしの好きなのに、ラマルクの進化論というのがある。一時はダーウィンの進化論といい勝負をしていたらしいが、今ではほとんど否定されてしまった。
これは、例えばキリンで説明すると、昔のキリンは首が短かった。高いところにある木の葉っぱを食べたいなー、と首を伸ばした。たまに少し食えたりして、もうちょっとなんだけどなー、ともっと首を伸ばした。
そうやって、代々頑張って首を伸ばし続けているうちに、キリンの首は長くなった、とまあ、そんな説。
代々頑張って首を伸ばし続ける、なんてところが、想像すると実にバカバカしくてよい。
もちろん、これらの進化論、科学的には否定されるのだろう。そんなこと、言っているほうは百も承知である。
一方で、よく社会や文化に進化論的なものを持ち込もうとする人々がいる。あれは実によくない、と思う。
自然と社会・文化は別のものだ。自然のほうの進化論の理屈が、社会や文化に当てはまるように見えることがあるかもしれないが、それはあくまで当てはまるように「見える」だけだろう。
「見え」ているだけならまだしも、しばしばその手の人は進化論から何かを予想したり、自分の主張を進化論で補強しようとしたりする。実にもって危ない。
その手の人と、山下洋輔や立川談志のどちらが知性的かというと、そりゃもう、後者のふたりに決まっている(わざわざ断るのも馬鹿馬鹿しいくらいである)。
山下洋輔も立川談志も、科学なんざこの際、関係ないと割り切って語っている。
一方、社会や文化に進化論的なものを持ち込もうとする人は、困ったことに、たいてい大真面目である。でもって、本人は科学のつもりでいる。
自分が振り回しているものが刃物だと気づかないでいる人は、大変に危険である。
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「今日の嘘八百」
嘘五百九十六 「心頭を滅却すれば火もまた涼し」などと言い出して焼死した快川和尚の最後の言葉は、「やっぱり、熱い」だったそうである。