ギャンブルと主観と統計と

 立川談志が何かで「ギャンブルというのは客観を主観に変える作業でしょう」と言っていて、なるほどなー、と思った記憶がある。

 ギャンブルというのは基本、確率論で、たまたま当たったら「おれはツイテいる」と感じ、当たらなければ「ツイテいない」と感じる。ツイテいることが続くと「おれは博才があるんじゃないか」と勘違いしていく。

 しかしまあ、サイコロを何度も何度も振ると出る目の数はだいたい平均化していく。600回振れば、ちゃんとしたサイコロなら1が出る回数も6が出る回数も(もちろん他の目も)おおよそ100回くらいにまるはずだ。

 ギャンブルの種類によっては、ある程度、自分の判断がかかわってくるものもあって、競馬なんかは自分の情報分析で当たる確率を上げられる(あるいは下がってしまう)部分もある。しかしまあ、たとえ勝ったとしても本当に自分の判断のおかげだったのか、たまたまだったのかはまずわからず、運良く当たっただけなのに「おれは競馬の才能があるのだ」などと勘違いしてのめりこんでしまい、その後外れ馬券の山の花嵐、なんてことにもよくなるようだ。つまり、馬が勝つ確率とオッズの関係という客観が、「おれの力で結果は予測できるのだ」という主観に挿し変わってしまうわけである。

 おれは麻雀をやらないが(手が不器用でチョンボばかりするからだ)、判断する局面は非常に多く、実力が反映する程度は高そうだ。それでも配牌やら相手の動きやら、運に支配されるところも多い。その分、客観と主観の入れ違いは起きやすいかもしれない。要するに、確率的に運良く勝ったのに、「勝った」という事実が主観になって、「おれは麻雀がうまいのだ」と考えてしまうのだ。

 博打がこの世からなくならないのは、たぶん、客観を主観に変えて感じる喜びが大きいからなんだろう。株取引だって、FXだって、おおよそ同じだ。世の中、確率で決まる部分はとても多いのだが。