誇り

「自分の国に誇りを持て」とか、「自国の伝統と文化に誇りを持つ教育を」とか、ま、そんなような主張をよく見かける。


 誇り。困った。


 自分を省みて、日本という国に誇りを持っているかというと、うーん、どうも「日本」というのがデカすぎるというか、いろんな要素を含みすぎているというか、漠としてよくわからない。


 法律を骨組みとする国家のことか、土地の風景のことか、そこに住む人々のことか、歴史・伝統・文化のことか、ねえ。
 今、書いたひとつひとつを取りだしても、それぞれあまりに巨大で、ぼうっとしてよくわからない。


 それらをひっくるめた全部、と言われるとなおさら困る。
 例えば、「太陽系に誇りを持て」と言われても、たいがいの人が困るのではないだろうか。


 自国の伝統と文化というのも、正体がわかるようなわからないような、だ。
 とりあえず、仏像とか浮世絵とか俳句を、海外の人に自慢しておけばいいのかな。馴れ合いとか、とりあえず謝っておく文化とか。


 いや、皮肉な書き方をしたけれども、本当によくわからんのです。
 日本という漠然とした風土を漠然と愛してはいるけれども、それは誇りとはちょっと違うようにも思う。


 愛情は、欠点もひっくるめて全体に対して抱くものだけれども(誰か愛している人のことを考えてみていただきたい)、欠点に誇りを抱くことはできない。誇るとき、都合の悪いものは忘れるか、隠すか、少なくとも脇にノケとかなければならないのだ。


 わたしは戦後教育の失敗例なんですかね。自国の伝統と文化に誇りを持つ教育を受けていたら、こんなこと、考えもしなかったのかな。