ちょっと

 日本語がネイティブの人の会話や文章には、「ちょっと」とか、「少々」とか、「少し」という単語がよく混じる。わたしもそうだ。


 自分ではあまり意識しないことが多いようで、例えば、


「ちょっと大変」


 なんていうセリフは、冷静に見てみると、大変なんだかそうでもないんだか、よくわからない。


 いつだったか、道を歩いていて、50歳ぐらいの人品賤しからぬ紳士から、
「少々お訊ねしたいのですが」
 と声を掛けられたことがある。


「ハイ?」
 と立ち止まると、
「あなたは何のために生きているのですか。生きていることに意義を感じますか。そもそも人生にはどんな意味が込められているのでしょうか。神は存在すると思いますか。存在するとしたら、それはどういうふうに証明できるのでしょう。宇宙はどういうふうに始まったと考えますか。始まる前はどんな状態だったかわかりますか。そもそも宇宙というものがないなら、そこには何があったというのでしょう。何もなかったのなら、どうして宇宙が始まることができたのですか。こんなことを訊ねる私は何者なのでしょうか。私は本当に存在するのでしょうか。それとも、わたしは神ですか」
 畳みかけるように質問された。少々どころではない。


 気味が悪いので、
「いや、ちょっと……」
 と言って、早足で逃げた。


 というのは今、テキトーに作ったが、まあ、そういうことである。どういうことだ。


「ちょっと」、「少々」、「少し」を(ちょっとではなく)やたらと使う心理というのはどういうものだろうか。


 日本語がネイティブの人には、言葉をぼかす、あるいは丸める癖のようなものがある。断定してかまわないときに、「〜かもしれない」とか、「〜みたいな」とか、「〜か、と」などと、ヤコい言い回しをする。
「ちょっと」などの(形の上では)少なくする表現もそういう癖の表れで、人との直接の激突を避ける、洗練されたといえば洗練された、弱っちいといえば弱っちい心理が隠れている(のかもしれない)。


 まあ、しかし、少なくする表現も使いどころが大切だ。


 戦場の最前線に行って、上官に、サーベルを振り下ろしながら、
「少々、突撃ーッ!」
 などと号令されたら、どうすればいいのかちょっと困ると思うのである。


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「今日の嘘八百」


嘘百二十五 アインシュタインの舌を出す有名な写真は、アインシュタインが犬であったことを証明している。