公園デビュー

 誰が最初に使い始めたのか知らないが、「公園デビュー」という言葉、なかなかうまいところをついている。


 考えてみれば、「初めて近所の公園で遊びました」というだけのことなのだが、「公園デビュー」と呼ぶと、人生におけるちょっとした出来事のようでもあり、コミュニティ(これも大げさだな。ご近所の親のみなさんのことである)に加わる感覚もある。


「デビュー」という言葉には、若い女性が社交界に初めて出ること、という意味もあるそうだ。それを踏まえると、「公園デビュー」という言葉はなおのこと、趣深い。


 何より、「この子は特別な存在である」というふうがあって、親心にうまくハマるのかもしれない。確かに、親からすれば自分の子供は特別な存在である。


 まあ、一方で、世間一般から見れば、たいていの子供はたいてい、ただの子供だ。そこらを勘違いし続けると、大きくなってから子供がかえって苦しむのかもしれない。


 生きているといろいろな節目があるもので、小学校デビュー、会社デビューなんていうのは、たいていの人が特別な緊張感を味わったのではないか。
 風俗デビュー、なんていうのも、特別な感覚がある――と風の噂に聞いたことがあるのだが、エー、それについては他の人に譲ります。


 わたしからすると、子供の公園デビューは、砂遊びするなり、滑り台するなり、近所のガキに泣かされるなり、デビュー戦で天晴れいきなり泣かすなり、勝手にすればよい。
 より興味深いのは、仕事を引退した人の公園デビューである。


 公園でゲートボールをやっている人達に初めて加わるときというのは、どんな心持ちなのだろうか。
 そもそも、どんなふうにして加わるのか。


 こう、毎日、公園に行ってベンチに座り、遠目にゲートボールを眺めている。そうやって、ゲートボールをやっている人達に少しずつ印象をつけておく。
 でもって、あるとき、勇気をふるって、「あの」と声をかける。「わ、わたし、この三月に会社を、た、退職いたしまして」などとちょっとズレた自己紹介をしながら、ゲートボールに加えてもらう。そんなふうなのか。


 ドラマチックだ。


 文化人類学者が閉鎖的な村に入るときも、村の外にテントを張り、相手に少しずつ慣れてもらう、という手法があるそうだ。本質的には同じである。


 それとも、まずは町内の老人会に入り、そこでゲートボール・チームに加えてもらうのだろうか。
 一連の手続きを踏めばいいので、そちらのほうが楽そうではある。


 しかし、それはそれで老人会デビューというものがあるわけで、やはり、緊張からは逃れられない。


 見方によっては、人生、いろいろとドラマチックな場面があるものだ。

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「今日の嘘八百」


嘘四百三十二 水をやりながら「♪早く実よなれ、柿の木よ。ならぬと、ハサミでちょんぎるぞ」と言ったカニが、柿の木への恐喝罪に問われているという。