昨年、四十になった。
「椿三十郎。もっとも、もうすぐ四十郎ですが」と頭を掻きながら言えなくなったのが残念である。「椿四十郎。どうせそのうち五十郎ですが」では、何だか投げ遣りだ。
若い頃は、四十の人というと、こう、がしっと構えて、常識も責任感も備え、「まァ、まァ、まァ」と物事をまるく収め、多少、周りから疎まれるときはあってもそれなりに存在感のある人、という印象を持っていた。
しかし、自分がいざそうなってみると、何ともへなへなである。
こうやって書いていても、自分が四十だ、なんて信じられない。世間様に顔向けできない心持ちがする。
ただ、年齢のせいか、涙もろくなった気はする。
正月もテレビを見ていて、何気ないことで泣きそうになるので、自分でも驚いた。
何しろ、田舎の山の中をトコトコ電車が走っているシーンを見ただけで涙がこみあげてくるのだ。
あるいは、帰省先から戻るのだろう、新幹線のホームで子供が「おばあちゃんにまた会いたい」と言っただけで、涙がダーッ。
村おこしに取り組んでいる若者を見ては、ダーッ。
旋盤工のオッサンが、真剣な表情で鉄板に穴を開けているのを見ては、ダーッ。
猪木の写真を見ては、1・2・3、ダーッ。
ちょっとどうかしているのではないか、と自分でも思う。
町を歩いていてもそうである。
赤ちゃんを大事そうに抱いている父親を見ると、涙が出そうになる。
母親と娘が楽しそうに会話しているのを見て、こみあげてくる。
中学生のカップルが手をつないでいるのを目にすると、石を投げつけながら、泣く。
雀が二、三羽、ちゅんちゅん鳴きながら、地面に下りたり、飛んだりするのに涙ぐむ。
お月様がきれいで泣ける。
「おれって、いいやつだなあ」と自分に感動して、号泣する。
しょうがないから、最近は涙がこぼれないように、上を向いて歩いている。
おかげで、やたらとクルマに轢かれる。
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「今日の嘘八百」
嘘三百二十六 年をとると涙もろくなるのは、脳内の回線が整理されて単純化するからである。