自分が簡単にできることを、できない人に教えるのはなかなか難しい。


 例えば、わたしは口笛を吹ける。
 何しろ、「ストレンジャー」のイントロを吹きながらニヒル&ロンリーに母親の胎内から出てきたくらいだ。わたしにとっては簡単なことである。


 自分にとっては簡単すぎて、口笛を吹けない人に「教えてください」と言われても、困ると思う。
「口をすぼめて息を吹きなさい」と、ンなことわかっている、と思われそうなことくらいしか、言えない。


 逆のものもあって、どうしてもできないことがある。
 生卵をうまく割れないのだ。


 まず、卵を何かの角にぶつけるのだが、その力加減がわからない。弱すぎてはひびが入らないし、強すぎると角に白身がついてしまう。


 いつだったか、友達の家ですき焼きをごちそうになったとき、小鉢のへりに卵を強くぶつけすぎて、コタツの上に黄身まで飛び散らしてしまった。
 友達に、「お前は心の中に、闇を抱えているに違いない」と指摘された。


 次にわからないのが、卵の殻をぱかっとふたつに割る方法である。


 ひびの両側を持ってふたつに割るのだが、わたしがやると、どうしても指に白身がつく。白身をつけずに済んだ成功体験が、ひとつも記憶にない。
 下手すると、ぐわしゃっ、と卵を握りつぶしたような具合になってしまう。


 他の人を見ていると、実に簡単に卵を割る。指には何もつかず、白身と黄身はきれいにボウルや小鉢やフライパンに落ちる。
 どうやっているのだ? と(こっそり)見るのだが、工夫もコツも特にないようだ。
 わたしは指についた白身を(こっそり)なめながら、ちょっとばかりみじめな気分になる。ウディ・アレンみたいな顔になっているかもしれない。


 料理番組を見ていると、たまに、料理を作りながら片手で卵をぱかっと割る人が出てくる。
 嫌みだなあ、とわたしは思う。自分の器用さを、そんなふうに見せびらかさなくたっていいじゃないか。


 映画に、時々、共通の病気、悩みを抱える人々の自助グループが出てくる。
 ガン患者とか、薬物依存症とか、何かのPTSDとか。実際に、アルコール依存症アルコール中毒自助グループ(断酒会など)の話を聞くこともある。


 いっそ、卵をうまく割れない人々の自助グループを作ったらどうだろう。


 公共施設の一室を借りて、患者(とあえて言おう)が円形に座る。
 進行役が言う。
「OK、始めましょう。じゃあ、最初に、ジョン。前回から今日までの、卵の話をして」


 ジョンがいくつものうまく割れなかった卵の話をする。まわりの人々は静かに肯いたり、ジョンの感情が高ぶると、「ああ、ジョン。あなただけじゃないのよ」、「大丈夫」などと声をかけたりする。


 そうして――最後はお祈りか何かして、別れるのだろうか。
「明日、卵がうまく割れなくても、私たちは、絶望しません」、と。


▲一番上の日記へ

                  • -


「今日の嘘八百」


嘘百十 鶏を活けるのではない。命を活けるのです。