一昨日の文章へのコメントで、yagianが紹介していた、Wikipediaの「桃太郎」の項を読んでみた。
こんな一節があった。
現在では「暴力的な話」だとして、絵本や子供向けの書籍では「鬼退治」ではなく「話し合いで解決した」などと改変されている。
んーむ。
犬、猿、雉を引き連れて、背中に指した「日本一」の旗も勇ましく、鬼ヶ島へ交渉に向かう桃太郎。いいのだろうか、ンなことで。
わたしがガキの時分の桃太郎は、もちろん、鬼ヶ島に乗り込んで、アッパレ、鬼どもをやっつける、というものだった。
どんな本で知ったかは覚えていないけれども、ガキのわたしは、「あくまで昔の話」として見ていたろうし、そういうもんだ、と捉えていたように思う。
鬼退治をした桃太郎を聞いた/読んだからといって、特に暴力的な人間に育ったわけでもない。
テレビをつければ時代劇でさんざっぱら斬った張ったをやっているんだし、桃太郎を糊塗したって、あまり意味はないだろう。ガキどもだって、胸のすく思いを味わいたかろうし。
まあ、鬼の首がスポーンと飛ぶとか、血まみれになって桃太郎がケタケタ笑っている、なんて表現は、さすがにガキには行きすぎだと思うけれども。
話し合い、ねえ。
まあ、話し合いの運び方が、ガキの興をそそる筋道、展開なら、そうしたっていいと思う。
しかし、そういうのを作るのはなかなかホネだよ。
桃太郎 これは、アナタ、強奪というものではないですか。
鬼 うるせえ。おれたちゃ、鬼だ。鬼には鬼の生き方ってもんがあるんだ。
桃太郎 ひとりひとりがそういう乱暴なことを言っていては、人の世というものが成り立たんでしょう。
鬼 だから、おれら、人じゃないから。
桃太郎 ならぬことはならぬものです!
うまく行きそうにない。
かといって、ディベートよろしく、理詰めで相手をやっつける桃太郎、なんていうのもヤな感じである。
こういうのは、よほど上手いストーリーテラーにでも任さない限り、盛り上がりに欠け、物語としてダメになるだろう。少なくとも、彦一話のひとつを作るくらいのことは必要だと思う。
それに、昔話に、朝日新聞的了見を押しつけるのもインチキくさい。
Wikipediaから別の一節。
「桃太郎」というネーミングはジェンダーバイアスを押し付けるものだとして主人公が「桃子」になっているものも存在する。
ジェンダー論自体には興味深いところもあると思うけれども、それはさすがにやりすぎだろう(まあ、かなり特殊な例だろうが)。
イギリスの喜劇俳優、ジョン・クリーズの言葉。
修正するのはいい考えだと思うが、やりすぎは良くない。何が危険かと言うと、あるグループの中で1人が特に神経質だとする。ほかの人たちより感情をうまく制御できない。神経質な人はすぐ怒るからみんな楽しめない。気楽に思いつきで話せなくなる。堅苦しい雰囲気になる。
神経質な人たちが社会を動かしたら、病的な社会に。一般的なことまで修正される。“神経質な人の常識”に塗り替えられる。
(DVD「フォルティタワーズ」中のインタビューより。ASIN:B00005YUXG)
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「今日の嘘八百」
嘘四百六十七 足柄山では金子(きんこ)さんが熊にまたがっているんだそうで、なんだかヤラしいね。