手垢と魅力

愛国心」という言葉にはなかなか可哀想なところがある。


 日本では戦前にやたらと鼓吹されて、ヒステリックな動きに利用されたから、戦後になって忌避されがちになった。
 もうほとんどアレルギーのように、言葉を見ただけで拒絶反応を示す人もいる。


 ちょっと手垢がつきすぎて、今では手垢自体が言葉の一部になっている。


 おまけに、国を愛する心の「国」というやつが、しかと見ようとすると、ぼうっとして、はっきりしない。


「国家権力」というふうに使われる意味での国家のことなのか、「お国自慢」という言葉で使われる際のお国のことなのか、伝統、文化(このふたつも曖昧で、曲者だが)がある程度共通する地域のことなのか、よくわからない。


 この3つ、同じではない。
 日本国民であるラモスや三都主、日本で生まれ育ったが外国の永住権を取得した人々、あるいは日本国籍を取得していないが日本で生まれ育った人々のことを考えてみていただきたい。


愛国心」を唱える政治家の中には、わざと曖昧なままにしておいて、自分に都合のいい意見に引っ張ろうとしているのでは、と邪推したくなる人もいる。


 ここでは、一応、「国」を「伝統、文化がある程度共通する地域」ということにしておく。


「伝統、文化を愛する心」でも、「伝統、文化を尊重する心」でも、「伝統、文化を大切にする心」でも、どれでも構わないが、はて、こういうものって学校で教えるものなのか。あるいは、教えられるのだろうか。


 いや、教えてはならない、と言いたいんじゃなくて、よくわからんのよね。


 子供達に、「伝統、文化を大切にしましょう」と抽象的なことを語っても、あまり効果はないだろう。
 伝統、文化というのは具体的なものやことを通じて伝えるしかないのだが、さて、では、どうするのだろうか。


 仏像でも見せるのか、三味線を弾かせるのか、小唄や都々逸をやらせるのか(これはいいな)、夜這いをさせるのか*1


 あくまで何となくの話なのだが、伝統、文化(を構成する個々のもの。踊りとか民謡とかお酌とか)というのは1クラス40人でまとめて教えるものではないように思う。学校を離れたところで、放っておいても身についていくものではないか。
 放っておいても身につかないのなら、身につかなくなっている理由を探るべきで、「じゃあ、学校で教えましょう」というのは結論が早すぎる。


 魅力的なものなら、その魅力が伝わる場や手段があれば、自然に愛されていくものだと思うのだが。
 学校で教わるようになった途端、そのものの重要な部分が死んでしまう気もする。


 学校で教えなくたって、クラシックを好きになるやつは好きになるし、ジャズを好きになるやつは好きになるし、常磐津を好きになるやつは好きになるし、ロックを好きになるやつは好きになる。


 愛せるものなら、放っておいても愛するようになると思うのだけどねえ。

*1:付記:俳句や和歌は馴染みやすそうだ。すでに学校で教えているけど。