伝統と学校

 ――と、ここまで書いてきたけれども、やはり「伝統」とおおざっぱにくくると、語りにくい。


 例えば、「小唄のよさを教える」とか、「壺のよさを教える」とか、できるものならやればよいと思う。
 そのよさが伝われば、結果として、小唄好き、壺好きが生まれるだろう。


 しかし、四十人ひとまとめの学級で、壺のよさを教えるのは難しい。
 その結果、「日本では、海外でも評価の高い素晴らしい壺が作られてきました」という、文字的な「知識」を教える方向へ流れやすい、と思うのだ。


 わたしは、例えば、源氏物語をいいとも思わないで、あるいは読みもしないで、「我が国の源氏物語は世界最古の長編小説である」(本当にそうなのかどうかの問題もあるが)と誇ることを、くだらないと思う。


 浮世絵をさして好きでもないのに、「ヨーロッパの印象派の形成に大きな影響を与えた」と誇ることを、くだらないと思う。


 そういう誇りは、「伝統を愛する心」ではなく、「伝統があることを愛する心」だろう。


 沖縄民謡は、現地では年かさの人から若い人へとうまく伝わっているようだけれども、あれ、学校教育のおかげなのだろうか。
 たぶん、違うだろうと思うが、いや、きちんとした知識はない。知っている人がいたら、教えていただきたい。


 あるいは、学校で「惻隠の情」とやらを教えたらどうなるのだろう。
 一学級四十人で、いっせいにかわいそがるのだろうか。


▲一番上の日記へ


嘘二百五十一 満員電車に箱を持った浦島太郎が乗ってきて、パニックになった。