観光写真と野歩き

 よく書くことだが、この日記は、いつも出たとこ勝負で書いている。


 話の筋道や構成をあらかじめ決めてから書くことはあまりない。
 せいぜい、「こういうことについて書こう」という、ぼんやりした考えがあるくらいで、あとは成り行きでダバダバ書いている。


 出たとこ勝負の効用というのもあって、それは自分が書いていることに自分で盛り上がれる(ときもある)ことだ。
 生命力、というといささか大げさだが、まあ、出たとこ勝負ならではの勢い、というのはある。勢いとか、いい感じのリズムが文章から感じられれば、その日は成功だ*1


 ジャズの即興演奏のようなことを文章でやりたい、と言うと格好つけすぎか。実際には、一人酒盛りのようなものだ。


「ささ、ドーゾ、ドーゾ」
「いやいや、おっとっと」
 と、晩酌しながらひとりで盛り上がることがわたしにはよくあるのだが、まあ、そんなところである。


 話がどういう方向に転がるかは書いてみなければわからない。落語の「素人鰻」じゃないが、「前にまわって鰻に訊いてくれ」である。


 文章や話には、結論めざして一直線、というものもある。目的地まで行って、名所で記念写真を撮って、満足する。
 まあ、記念写真はひどい例かな。別に結論を大切にしている文章や話を否定しているわけではない。


 一方で野歩きのような、途中、途中を楽しめればそれでよい、という文章や話もある。
 例えば、落語は別にオチを知るために聞くものではないだろう。音楽だって、エンディングが知りたくてしょうがなくて、演奏を我慢して聴くわけではない。途中、途中が楽しいのだ。


 極端に言えば、途中、一瞬でもワッと来るところがあれば、それでいい(こともある)のだ。


 結論を重視する文章でも、途中、途中は大切だ。
 どういうふうに結論に至るかが問われることもあるだろうし、わたしにはまるで無理だが、数学者が証明の過程の美しさを楽しむ、なんてこともあるのだろう。たぶん。おそらく。知らんけど。


 結論なんざどうでもいい、読んでて楽しきゃいいのよネー、という文章を書いていて困るのは、「で、結局、何が言いたいのですか」という質問だ。
 答えるとしたら、「書いたこと、全部」というしかない。


 まあ、そんな質問が出るということは、途中、途中がつまらなかったということなのだろう。ドーモ、スミマセン。
 と、とりあえずニッポン民族の得意技、「とりあえず謝っておくの法」でこの場は切り抜けることにする。


 エー、毎度おなじみ、芝浜でございました。
(♪チャカチャンチャン、チャンチャン、チャンチャカチキ、チャカチキ、チャカチラチカチキ〜)


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「今日の嘘八百」


嘘九十四 尼寺で体験修行する女性の6割が、ダイエット目的だという。

*1:わたしの場合は根本的にバイタリティというものに欠けるため、「今にも死にそうな生命力」、「ダメな勢い」となってしまうのが悲しいところだが。