明治維新の牛鍋以来、ワシらはある種のものを自動的に「洗練されたもの」、「カッコいいもの」、「上等なもの」と感じるようにできあがっているようなのである。
白人のオネエチャンが問答無用という感じで微笑んでいる広告を見ると、「なぜタイのナムプンさんではいかんのか?」とわたしなぞは小首をかしげるのであるが、本当は理由をわかっているのである。
「グローバル」を謳う企業のサイトに写真が載っていると、8割方は欧米のオフィスの写真だし。
どこがグローバルじゃあ、欧米やないけえ、と、何弁やらようわからん言葉遣いで思うのである。
ああいうのは、知性を疑われるので、ホント、やめたほうがいいと思う。
デザイナーを放っておくと、やたらと欧文を入れたがって、しかも、LとRを見事なくらいに間違える。「Rink」と、なぜかあちこちのウェブサイトにスケートリンクの案内とおぼしきものを載せてしまうのである。
それはいい。
って自分で書いておいて、「それはいい」もないもんだが、それはいいのである。
牛鍋以来の欧米コンプレックスの故かどうかはよくわからぬが、クラシックの作曲家の名前。
日本では姓だけを平気で使っているけど、どんなものなのだろうか。
チャック・ベリー、ビートルズに「ロール・オーバー・ベートーベン」という曲があって、日本語タイトルは「ベートーベンをぶっとばせ」ということになっている。
あれ、ドイツ語圏の人々からすると、
山田をぶっとばせ
という語感ではないと、誰に言い切れようか?
い、いや、いろいろな人に言い切られると困るので、深追いはやめておく。
小林麻美に「雨音はショパンの調べ」という歌があったが、あれだって、
雨音は田中の調べ
かもしれない。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの死の謎を描いた「アマデウス」という有名な映画があるが、あれとて、
権太郎
という印象の可能性――は、やっぱ、無理矢理である。
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「今日の嘘八百」
嘘六十八 テロに遭うのは現代社会に生きる税金のようなものである。