正しいヒョ〜ゲン

 ちょっと話は変わるが、柳田国男に方言周圏説というのがあって、簡単に言うと、中央から遠ざかるほど、古い時代にできあがった日本語の言葉が残っている、というものだ。


 ウロ覚えなので間違っていたら指摘していただきたいが、昔は今ほど地方間の交流がなかったから、言葉が伝わるのに時間がかかった。


 例えば、「トンチキ」という言葉が中央で生まれても鹿児島や青森にはそうすぐに伝わらない(柳田国男は別に「トンチキ」という言葉を調べたわけではない。説明のために私がねつ造した例なので、念のため)。
 牛歩戦術で言葉が遠くへと広まっていく間に、中央では別の言葉、例えば、「スットコドッコイ」という表現が生まれている。
 そうして、「スットコドッコイ」が牛歩戦術で広がっている間に、今度は中央で「ヘッポコ野郎」という言葉が生まれる。


 ……というわけで、中央を中心に同心円状に「ヘッポコ野郎」、「スットコドッコイ」、「トンチキ」が広がっている。
 中央では「ヘッポコ野郎」、日本の端のほうでは古い表現である「トンチキ」が使われている、と、そんな話だったと思う。
 つまり、日本の端のほうに行くに従って、古語が残っている、というのだ。


 私が方言周圏説を教わったのは高校のときだ。
 裏日本の、中央コンプレックスにさいなまれる地方で育ったものだから、方言周圏説は大いに不満であった。
 これではまるで新しい言葉は中央でしか生まれないみたいではないか? ワシらは、中央のお古ばかりを使わされるのか? 地方で新しい言葉は生まれないというのか? と、そんなことを思った。


 しかし、今考えれば、方言周圏説もある程度は理にかなっているのだった。


 あくまで私の考えだが、ポイントは交換のスピードと量だ。
 高速に、大量に交換されれば、まかり間違ってかどうかは知らないが、それまでになかったものが生まれやすい。
 それは、あるウイルスが大流行すれば変種が生まれやすくなったり、工場で生産のスピードを上げれば不良品の数が増えたりするのと同じだ。


 中央には人が集まってくるから、言葉もたくさん交換される。そうすると、新しい言葉も生まれやすくなる。


 地方でだって、もちろん、新しい言葉は生まれる(昔、京で「おいどんは西郷どんでごわす。チェストーッ!」などという会話がなされていたとは考えにくい)。
 しかし、言葉の交換の量とスピードが中央ほどではないから、中央のほうが新しい言葉は生まれやすい。


 後は、中央の言葉を珍しがる、使いたがる、という傾きも、地方にはあるかもしれない。


 で、何が言いたいかというと、パソコン上の通信や、携帯のメールでバンバカ新しい表現が生まれているのは、言葉の交換の量とスピードが格段に増えたからではないか、と思うのだ。


 新しい言葉の表現を叩く人は多いし、私にも嫌いな表現はある。
 しかし、それは主にギャップとマナー、まあ、大ざっぱに言えば、相手への気遣いの問題だと思うのだ。


 よく「正しい日本語」ということを言い出す人がいるけれども、頭ごなしにギャーギャー言う前に、「正しい」とはどういうことなのか、考えたほうがいいと思う。
 例えば、「ナントカ委員会が定めた事例に照らして『正しい』表現」というのなら、わかる。後はそれに従うか、無視するかだ。


 しかし、漠然と「正しい日本語」などと言い出すと、得てして、「好き/嫌い」、「慣れている/慣れていない」と「正しい/間違っている」がすり替えられてしまう。トンチキのやりそうなことだ。


 新しい表現を生むとき、あるいは面白がって使うとき、人はちょっとばかし、「おお!」と心高ぶる。それは結構なことだと思う。
 まあ、相手を見て、あるいは考慮して、使ったほうがいいとは思うけど。


 ところで、丸文字や変体少女文字は、メールの文面に押されて、廃れつつあるのだろうか。
 手書きの発想には、手書きの発想なりの面白さがあると思うのだが、10代の女の子の手書きの文字を見る機会なんてないから、よくわからない。


 10代の女の子のミナサンよ、一度、手書きの手紙を頂戴。オジサンはね、ミナサンがどんな書き文字で遊んでいるのか、ちょっと知りたいのですヨ。


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