「子供達に、ちゃんと社会のルールを教えなければならない」


「モラルの崩壊を食い止めなければならない」


 たとえば、誰かがそんなことを言った(書いた)とする。
 私はもちろん、反対しないし、「ま、そりゃそうだ」と思う。


 しかし、一方で、何か、嘘くささ――は言い過ぎか。うーん、通り一遍というか、うわべのことのようにも、感じてしまうのである。上に書いた「ま、そりゃそうだ」の「ま」の部分に、そういう感じ方が表れている。


 なぜだろうか。ルール、モラル、というと、与えられたもののように感じ、時代とか状況が変われば、他のルール、モラルに簡単に取って代わるような気がするからだろうか。


 自分ではもちろん体験していないけれども、明治維新とか、終戦後の素早い変わり身、などの話を、38年も生きていれば、いろいろと見聞きしているからかもしれない。


 ところが、次のような言い方に、私はうわべ的なものを感じないのだ。


「それが筋ってもんだろう」


 軽い任侠というか、情に訴えるものがあるからか。自分の内側に働きかけるものがあるからか。


 世の中にはいろんな筋というものがあるのだが、なかなか条文にはしにくい。また、変に条文にすると、別の何か、ルールやモラルのようなものにすり替わってしまうような気もする。


 具体的な出来事が何かあって、「そういうときは、こうするのが筋だ」というのは言える。しかし、法律や校則のように条文にしてしまうと、こう、何かが変質してしまうのだ。筋というのは、もともと、不文律のものだからかもしれない。


 抽象的な話でスンマセン。今、書きながら、どうにもうまく伝えられず、困っている。


 有名人でいえば、筑紫哲哉がルールやモラルの人で、高倉の健さんが筋の人である。
 筑紫哲也が「それが筋でしょう」と言うのはあまりしっくり来ないし、健さんがもし「ルールは守らなければいけません」と言い出したら、なんだか裏切られたような気分になる。
 ワイドショーでは、小倉智昭がルールやモラルの人で、みのもんたが筋の人だ。


 広辞苑では「筋」を「物事の条理。道理。筋あい」と説明している(「筋あい」はなかろうと思うけど)。
 和英辞典で引いてみると、「reason ; logic」だそうだ。例文では、「筋の通った要求」を「a reasonable request」としてある。英語のニュアンスはあまりよくわからないけれども、ちょっとこう、健さん的な文脈での「筋」とは違うような気もする。


 何だろうか、筋。礼ともまたちょっと違うし。


「日本の封建的な共同体における〜」なんていう攻め方もあるのだろうけれど、手に負えなさそうだし、ツマラなそうなので、やめておく。


 ともあれ、「子供達に、ちゃんと社会のルールを教えなければならない」はまあ、そうなのだけれども、「子供達に、ちゃんと筋ってものを教えなければならない」とも思うのだ。


 いや、筋は教えるより、たたき込むべきか。学校で「筋」の時間というのを設けたらどうなるだろう。国語とか算数の後に、「筋」の授業を受けるのだ。「修身」や「道徳」より、よっぽど“生きる”気もするのだが。


 学級会で、「山崎君はウサギ係に立候補したんだから、自分が朝早く来て、ウサギ小屋のウンチを掃除するのが筋ってもんだと思います」なんて発言が飛び出したりしてね。バカバカしくて、よろしい。


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