悪文

 野口悠紀雄が「『超』文章法」の中で、悪文の例として税法のこんな条文を挙げている。


 法人税法、第三十五条の二 内国法人が、各事業年度においてその使用人としての職務を有する役員に対し、当該職務に対する賞与を他の使用人に対する賞与の支給時期に支給する場合において、当該職務に対する賞与の額につき当該事業年度において損金経理をしたときは、その損金経理をした金額のうち当該職務に対する相当な賞与の額として政令で定める金額に達するまでの金額は、前項の規定にかかわらず、当該事業年度の所得の金額の計算上、損金の額に算入する。


 これは凄まじい。しかも、これでも法人税法の条文中では「たちがよい」ほうなのだそうだ。


 法律の条文には正確性が必要だろうし、さまざまな条件を並べたうえで「こうせよ」という話になるから、ある程度、長い文になってしまうのは理解できる。しかし、箇条書きを使うとか、もうちょっと他に書きようがないのかと思う。


 野口悠紀雄は、別の悪文の例として日本国憲法前文も挙げる。


 われらはいづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国との対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。


 確かにこれもわかりにくい。


 全体の主語の「われらは」が最初に登場する。文全体の意味を決定づける述語の「信ずる」が最後に登場する。
 最後に「信ずる」が出てくるまで、読者は「『われわれは』一体どうするのだ〜」と宙ぶらりんのまま読マネバの娘である。その間、102文字。途中で脳味噌が行き倒れになる。少なくともわたしはそうだ。


 こうしたわかりにくさは、欧米語からの翻訳文の慢性病のようだ。そうして、翻訳文を片親とする近代日本語文の遺伝病でもあるらしい。


 文の構造が全く違う欧米語の文(述語が最初のほうに登場する)を、先人達はなるべくそのまま日本語化(述語が最後に登場する)しようとした。発想は漢文読み下し文に近かったのかもしれない。
 その結果、最後に述語が出てくるまで宙ぶらりん、しかも思考をあちこちに飛ばさせる文が生まれてしまったのだろう。


 その証拠に、上の日本国憲法前文の一節は、英語の原文(日本国憲法の日本文は翻訳)では結構わかりやすいのである。


We believe that no nation is responsible to itself alone, but that laws of political morality are universal; and that obedience to such laws is incumbent upon all nations who would sustain their own sovereignty and justify their sovereign relationship with other nations.


 わかりにくい翻訳文をわたしもひとつ紹介しよう。


男たちの家バイテマナージョを中心とした小屋の環状配置が、社会生活と精神生活との面でいかに重要なものであるかは、リオ・ダス・ガルサス地方の伝道師たちがボロロ族を改宗させるには彼らの村を捨てさせて平行状に並んだ家のある他の村に移住させるのが最も確実な方法であることを知ったのでもわかる。


(「悲しき南回帰線 下」、レヴィ=ストロース講談社学術文庫


 丁寧に読めば、意味はとれる。おそらく、フランス語の原文をなるべく忠実に日本語化したのだろう。


 しかし、日本語の文としてはわかりにくい。「彼らの村を捨てさせて平行状に並んだ家のある」あたりでわたしは何度も脳味噌が行き倒れになった。


 こういう文を読むと、文を分割すればいいのになあ、なぜそうしないのだろう、と思う。あるいは、学術書の翻訳では、1つの文は1つのままに、2つの文は2つのままに、という決まりでもあるのだろうか。


 日本語の文では、文全体の意味を決定づける述語が最後に来る。これは動かせない条件だ。だから、その前に来る枝葉(英語で関係代名詞を使うような節)はなるべく簡潔に、短くすべきだと思う。必要なら文を分ければよい。


 構造のややこしい文を読まされることで、我々はどんだけ時間と労力を無駄にしていることか。悪文はまさに悪だと思う。


「超」文章法 (中公新書)

「超」文章法 (中公新書)