「Tsunamiという言葉は英語にもなっている」と言われると、何となく自尊心がくすぐられる(ぎゃはははは!)気がするのは、アレだろうか。やはり、明治維新・文明開化以来のコンプレックスの裏返し、というものだろうか。
自分ではなるべく安直な民族意識は持たないように気をつけているつもりだけれども、やっぱり負けてたまるか、ニッポン男児という意識はあって、「英語にもなっている」と言われると、ワッハッハと思ってしまうのである。
こういう自尊心をくすぐる「英語にもなっている」言葉はいくつかある。Samurai、Ronin、Bushi-doなんてあたりが、たぶん、日本人側の受けのいい言葉だろう。
邪推かもしれないが、トム・クルーズ主演の「Last Samurai」は日本での興行収入も相当計算に入れて製作されたんじゃないか。もしそうなら、日本側のコンプレックスがしっかり計算に入れられているわけだ。悔しい。無礼討ちにしてくれん!
実際には腰抜け侍、犬侍と呼ばれる人々もいたろうし、時代劇を見れば、だいたいお代官様周辺にはロクな侍がいない。
浪人だって、本来はただの身分というか、状態である。幕末には「攘夷のためである」と称して町屋を襲い、カネを奪って遊んでいた、けしからぬ輩もいたそうだ。
だから、侍、浪人がリッパだというわけではないのだけれども、英語になっちゃうと、なぜだかリッパなものになってしまうのだ。英語を使う側が(誤解も含めて)持ち上げがちだからかもしれない。
これが、「Harakiriという言葉は英語にもなっている」となると、ちょっと困った気になる。
切腹は、忠臣蔵のようにある種の美学のある行為、荘厳な行為として描かれることも多いけれど、今となってはこちら側に「野蛮」という認識が同時にできているからかもしれない。
「Choninという言葉は英語にもなっている」はどうだろう。自尊心をくすぐられるかどうか、微妙なところである。
「Hyakushoという言葉は英語にもなっている」も同じぐらい微妙だ。しかし、これが「Don-Byakushoという言葉は英語にもなっている」となると、なぜだかとても困った気持ちになる。最初に書いたコンプレックスの裏返し的鼻高々感と、蔑称であることが頭を混乱させるのかもしれない。
「Sukiyakiという言葉は英語にもなっている」、「Sushiという言葉は英語にもなっている」、「Tempuraという言葉は英語にもなっている」はどれも自尊心をくすぐられない。
たぶん、スシ、スキヤキ、テンプラという言葉が、「ガイジンさん用語」としてあまりに使い古されているからだろう。驚きや意外性がないのだ。
同じ理由で、「Fujiyamaという言葉は英語にもなっている」、「Geishaという言葉は英語にもなっている」も新鮮さがない。あ、Fujiyamaは固有名詞だから、英語になるならないの問題じゃないか。
コンプレックスの裏返しのさらに裏返し、というのもあって、「Kaishun-tourという言葉は英語にもなっている」、「Amakudariという言葉は英語にもなっている」、「Panchira-shotという言葉は英語にもなっている」なんていうのは、嫌な感じがする。外国の方々に対して、何か非常に恥ずかしい、という気になるからかもしれない。
まあ、何かこう、民族意識というか、そう大げさなものではなくても、我々意識、コンプレックスというのは複雑なものですね。
どうにも扱いにくいものもある。
「Akikanという言葉は英語にもなっている」
そのココロは? と問われても、答えようがない。