社会と世の中

 おれは「世の中」という言葉が好きで、いっそ結婚したいくらいだ。というのはさすがに嘘だが、好きだというのは本当である。

 世の中という言葉は人のにおいのするところがいい。これが「社会」となるとどうも固苦しく、そこで息づいている人の感じがしない。

 世の中という言い方はまた曖昧であって、どこからどこまでが世の中でどこから先がその外なのかよくわからない。世の中と呼べるのはなんとなく噂の届く範囲という感じはするが、SNSなどが広まると地域では分けられないふうになってきて、ますます曖昧度が進んでいる。その曖昧な感じがおれは好きである。

 似た言葉に「世間」というのもあって、またちょっと違うニュアンスがある。「世間さまが許しませんよ」なんて言い方はあるが、「世の中さまが許しませんよ」とは言わない。思うに、世間には共通の道徳というか、なんとなくのお互いの了解事項というものが関係していそうだ。しかし、こうグローバル化していろいろな人が入り乱れてくると、共通の道徳や了解事項もこしらえにくく、世間さまという了見がしにくくなってきているかもしれない。

 社会という言葉もそれはそれでいいのだが、「社会貢献」なんぞという言葉にすると、どうもリッパすぎ、大げさすぎる感じになる。「世の中貢献」と言ったほうが貢献の度合いもいろいろありえてよいと思うのだがどうだろう。

 一方で、「社会主義」というのを「世の中主義」と言い換えてしまうと、なにやらぼうっとしてよくわからない。そりゃあ、世の中は大事だよな、で終わってしまい、マルクスとかレーニンとか志位委員長といった人々が張り切れなくなさそうだ。社会は建設できるが、世の中は建設できない。このあたりが、社会と世の中の案外芯に近いところの違いなんではなかろうか。