成長率

 経済に関する話は、新聞でもニュース番組でも男性向け週刊誌でもとてもよく話題になる。というか、話題にならない日(週刊誌なら週)はないだろう。
 一方で、女性向け週刊誌ではめったに話題にならないようで、この違いはどこから生まれるのか、今、急に興味が湧いたが、そっちのほうへ流れるのはよしとこう。初志貫徹。書きたいことがあるのだ。


 政府の仕事というのはもちろんいろいろあるのだけれども、新聞やニュース番組から受ける印象では、半分以上、経済に関するあれこれをやっているように感じる。あくまで私の印象で、きちんと計ったわけではないのだけれども。


 特に景気というものが重要らしくて、経済成長率が1%上がった下がったと大騒ぎである。マスコミも含めて。


 いつからこんなに経済成長率が話題にされるようになったのか、私は知らない。明治・大正の頃、たとえば、西園寺公望が「今年の経済成長率はいかがでおじゃるか」などとのたまったことはあったのだろうか。


 「くたばれGNP」という言葉が流行したのは1970年前後だそうだから、経済成長率、というか、数値的な経済成長が人々の関心を買うようになったのは、もしかしたら戦後のことかもしれない。いや、どうだか知らないが。


 例によって、知らないことだらけである。


 ともあれ、現代は、経済が成長することに大きな価値が置かれている。
 と、こう書くと、「しかし、我々は本当の豊かさというものを忘れていないだろうか。あくせく働いて消耗し、過度のストレスで心身を害する人も多い。今こそ、生き方を見直したい。そう、これからはスローライフ」と行くのがありがちなパターンである。
 そうして、スローライフの「スロー」を勘違いして人生を投げ遣りに送る人が出てきたりするとそれはそれで素敵なのだが、そっちのほうへ流れるのもよしとこう。臥薪嘗胆。


 政府の仕事のかなりの部分が経済の成長に振り向けられている。もちろん、それは大事なことだけれども、価値を経済以外のところへもっと置くようになったら、どうなるのだろうか。


 人間というのは交換することがやたらと好きな動物である。
 物品、お金の交換、というのが、つまりは経済だ。だから、政府は人間の本性のある側面を充実させるために仕事をしている、ともいえる。


 しかし、人間が交換するのは物品、お金ばかりではない。


 たとえば、愛――。


 などと書くと、夕闇の中、流れるヘッドライトの列にふと淋しげに微笑むようなセンチメンタル大馬鹿野郎になるので、そっちのほうへ流れるのもよしとこう。怒髪衝天。


 私は大学時代に文化人類学というコースに籍を置いていて、婚姻というものは人間集団間(親族や村など)の交換行為である、という話を聞いたことがあるようなないようなおぼろげな記憶がある。
 ほとんど授業に出ない馬鹿学生だったので、正しいかどうかは保証しない。


 で、まあ、つまりですね、物品であれ、お金であれ、嫁・婿であれ、交換する、ということが人間にとって大事なわけです。そこにこそ、価値がある。


 で、我々が日常的に、おそらく最も大量に交換しているもの――言葉に着目するとどうなるのだろうか。


 突然ではありますが、ここに、私は、「言語コミュニケーション成長率」という概念を提唱したいのであります。


 近年のコミュニケーション用ツールの発達というのは目覚ましい。携帯電話、メール、ウェブサイト、これらはもしかしたら爆発的に言語コミュニケーションの量を増やしているのではないか。


 年配の人はしばしば若い人に対して、「携帯で話してばっかりいて」とか、「ずーっとポチポチ(飼い犬2)、メール打っていて、何が楽しいんだ」などとクサす。
 しかし、言葉を交換する、というところに価値を置くなら、彼ら・彼女らは言語コミュニケーション成長に大いに寄与していることになるわけだ。


 などと書いているうちに時間がなくなってきたので、ここまでにしておこう。続きは(たぶん)明日。傍若無人


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