続・成長率

 さて、昨日書いた言語コミュニケーション成長率の続きである。


 ……と、書いてはみたものの、実は困っている。「いったい、そりゃ、何だ?」と考えると、よくわからないのだ。
 ウーム、と唸ったっきり、かれこれ5時間、固まっている。


 さすがにこれでは今日一日を無駄にしてしまう(もっとも、お前の存在自体が無駄だ、と言われると返す言葉もないが)。
 ままよ(パパよ)、蛮勇ふるって、思いつくところから書いていく。


 まず、無口な人(かつ特に文章を書かない人)、についてだが、この人は言語コミュニケーションの成長に寄与していないことになる。


 たとえば、「経済成長に寄与していない人」というと、何やらダメな人みたいに聞こえるけれど、それは経済というものに価値を置いているからだろう。経済なんてどうでもいいのだ、という姿勢になるなら、別に悪いわけではない。

 同じように、無口だから絶対的にいけないというわけではもちろんない。ただし、世の中が、言語によるコミュニケーションこそが重要である、というふうになれば、揶揄されることになるかもしれない。
 現代でも、働く意志のない人を叩く傾向がある。勤労を美徳とするモラルだけでなく、「労働という形で社会に貢献しない人」という意味で叩かれる場合もあるんじゃないか。「とにかく経済」という価値観がそこにはある、と思うのだ。


 ただし、無口で文章を書かなくても、誰かの話を聞いたり(決して答えないのだが)、町の看板や何かを読んだり、テレビ・ラジオで言葉を見聞きしたりはするだろう。そういう意味では言語コミュニケーションに全く関わりがないわけではない。つまり、言語の消費者ではあるのだ。
 働かない人だって消費はするから、いくらかは経済の役に立っているのと同じである。もし、まったく経済に関わらない人がいるとしたら、密林の中で自給自足していた小野田さん(古いな……)みたいな人くらいだろう。


 さて、おそらく、言語をインプットされずにアウトプットする人はいないだろう。乳幼児の頃から言葉を覚え、いろいろ見聞きし、その中から言葉は発せられるのだ。原材料や情報の仕入れなくして生産が行われないのと同じである。

 ただし、記録によれば、世界史上、例外がふたりだけいる。お釈迦様と天才バカボンのハジメちゃんである。
 お釈迦様は母親のお腹の中から出てきた後、七歩歩いて天地を指し、「天上天下唯我独尊」といきなり言ったそうだ。母親と産婆さんは呆気にとられたろう。ハジメちゃんについてはよく覚えていないが、確か、生まれてすぐに喋ったんじゃなかったか。


 そんなことはどうでもよい。経済ではこういう式が成り立つ(たぶん)。


 付加価値=生産額−投入額(式A)


 生産といっても、モノだけでなく、サービスも含む。投入額は、まあ、原材料とか、情報料とかのことだ(たぶん)。


 言語コミュニケーションに置き換えれば、こうなる(たぶん)。


 付加価値=言葉のアウトプット−言葉のインプット


 昔からある「気持ちいい」という言葉と、「超」から比較的最近(ここ10年くらいか?)編み出された「チョー」という言葉が北島康介選手にインプットされる。
 そうして、オリンピックで泳ぎ終わった後、金メダルを獲得して、彼から「チョー気持ちいい」という言葉がアウトプットされるのだ。


 では、ここで言う付加価値とは何だろうか。「チョー気持ちいい」から「チョー」と「気持ちいい」をマイナスすると、何が残るのか?
 「感動」だろうか。何らかの、新たに引き起こされた情動だろうか。


 正直言って、私にはわからない。
 今、ここまで書いてきて、非常に後悔している。こんなこと、書き出すんじゃなかった。


 しかし、とりあえず頑張ってみようと思うのである。迷っても、困っても、わからなくなっても、諦めてはいけないという大切なことを、この正月、私は「はじめてのおつかいスペシャル」を見て、学んだのであった。


 とりあえず、言語コミュニケーションにおける付加価値とは何か、という問題には蓋をしておく。


 式A(付加価値=生産額−投入額)を日本国内全体で計算するとGDP国内総生産)になる。


 GDP=(年間の)国内全体の付加価値=国内全体の生産額−国内全体の投入額


 である。


 そうして、経済成長率とは、ある年のGDPが前年のGDPに対して何%増減したか、だ。


 経済成長率=(GDP−前年のGDP)÷前年のGDP×100(%)


 これを言語コミュニケーション成長率に置き換えると、


 言語コミュニケーション成長率=(今年の言語表現の付加価値−昨年の言語表現の付加価値)÷昨年の言語表現の付加価値×100(%)


 となる。


 私は今、ますます泥沼にハマっている。いったい、私は何をしているのだろう? なぜだか、長野県小諸市のスーパー「ジャスコ佐久平店」で迷子になって、新幹線に乗り、都営地下鉄大江戸線で保護された5歳の幼児のことを思い起こしている。


 やはり、問題は付加価値にあるようだ。言語における付加価値というものが何か、私にはわかっていない。それで困っているようである。


 付加価値のことは蓋をするのではなく、忘れよう。北島康介の「チョー気持ちいい」を持ち出したあたりから失敗したような気もする。


 GDPは、1年間に国内で使われたお金の合計、という捉え方もある。
 これなら、簡単だ。そうすると、言語コミュニケーション成長率は今年、昨年よりどれだけ多くの言葉が使われたか、ということになる。おお。何か、わかるような気がしてきた。


 そうなると、どんなにくだらない話をしようと、幼稚なメールを送ろうと、携帯でくっちゃべってメールをバカスカ交換している若者はエラい! という結論が出る。もし、言語コミュニケーションの成長に価値を置くならば。


 この場合、素晴らしい表現、面白い表現は、言語コミュニケーションの成長において、何の意味があるのか。

 素晴らしい表現も、ごく少人数の中であがめられ、そこから外に出ないなら、あまり言語コミュニケーションの成長に寄与しないだろう。

 面白い表現にも同じことがいえる。しかし、面白い表現、あるいは言葉、というのは他人に対して使ってみたくなる。そうすると、言語コミュニケーションの量は全体で増える。


 ということは、大人から見て、どんなにしょうもないように見えても、あるいは「言葉の乱れ」に見えても、若者の間で生まれ、広がっていく新種の言葉は、「成長」という観点からすると、プラスの存在である。


 一方、どんなに素晴らしい言語表現でも、広まらないものは「成長」に寄与しない。
 素晴らしい商品・サービスだって、売れなければ経済成長にはつながらないことと、同じである。
 実際、私の目からするとくだらないとしか思えないモノ・サービスが売れたりする。経済成長に価値を置くなら、売れるものはやっぱりエラいのだ。


 何だかわからんが、結論らしきものが出た。凄い。凄いが、結局、私はわかっていない。


 途中で投げ出さずにここまで付き合っていただいた皆様。伏して、御礼申し上げまする。「馬鹿のうえに無謀なヤツに付き合うと、ロクなことはない」という教訓ぐらいは得られたのではないでしょうか。


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