昔の日本の人口

 今、「気候で読む日本史」(田家 康著、日経ビジネス人文庫)という本を読んでいる。気候の変化がいかに日本あるいは世界の歴史に影響を与えてきたかという興味深い内容だ。

 

 

 この中で、ハワイ大学のファリス教授による過去の日本の人口推計が出てくる。それによると、奈良時代の730年の日本の総人口は580万人〜640万人だという。

 思いのほか、少ない。今の東京都の人口が1400万人だから、その半分以下の人数が全国にばらまかれていたわけだ。あるいは、横浜市の人口が370万人だから、横浜市ふたつ分くらいが全国にばらまかれていたとも言える。

 ファリス教授によれば、その後、平安時代の950年に440万人〜560万人に減り、平安末期の1150年までに530万人〜630万人と、奈良時代レベルに回復したという。

 人口減の理由は主に飢饉と流行病のようだ。平安時代というのはとにかく人が簡単に死ぬ(といっても飢えと病いで苦しんだ末に、だが)時代だったようで、食べ物に困らず、たいがいの病気は病院で治せる現代は実に恵まれていると思う。

 それでも現代は人口が減っていく時代だから、奈良、平安の人がもし現代を見たら、不思議でしょうがないだろう。

右翼の謎

 会社の近くにロシア大使館があり、この時期になると、右翼の街宣車がよく押しかけてくる。

 大使館近くの交差点には警察が移動式の柵を設けていて、街宣車が来ると交差点を閉鎖する。警察と右翼の間で多少の交渉というか、押し問答をした後、街宣車は去っていく。だいたいいつもこのパターンである。

 街宣車の主張はいつも同じで、「北方領土返せ!」「出てけ!」である。ものすごい音量のスピーカーで、ガンガン来る。

 で、これが不思議なんだが、主張が日本語なのである。相手に伝えたいならロシア語にするべきだと思うんだが。

 まあ、敵国(なのだろう)の言葉なんぞ使いたくない、沽券に関わる、ということなんだろうが、しかし伝わらないことには主張の意味がない。実際のところはロシア大使館に伝えるというよりは、まわりの日本の人々に主張したい、というところなのかもしれない。

 他にも不思議なことがあって、軍歌を流しながら突っ込んでくる街宣車も多い。戦後七十七年にもなるのに、今でも軍歌だ。突撃ラッパを鳴らす街宣車もいる。

 右翼方面の人の感性は独特で、なかなかに興味深い。

死後の年齢問題

 クリント・イーストウッド監督の「ヒアアフター」を見た。

 

youtu.be

 

 見るのは、たぶん3度目だと思う。イーストウッド監督の作品にほとんどハズレはないのだが、これもいい。

 イーストウッド監督の作品には運命を独力で切り開く主人公が描かれることが多い。しかし、「ヒアアフター」では、主人公たちがもがいて動くところもあるのだが、むしろ人から人への思いと温かな救いのほうがより大きく描かれているように思う。前半は暗いのだが、後半はやわらかい。彼の作品には珍しい。

 見た後は快い満足感に浸ったのだが、おれが考えたのは随分とくだらない話だ。

ヒアアフター」では死後の世界がテーマとして扱われる。主人公のひとりは人とふれることによって死後の世界を見ることができる。別の主人公は臨死体験をして、一瞬、死後の世界を覗いた。

 そこで描かれる死後の世界はぼんやりとしているのだが、白い光の中に大勢の人が立っている。どうやら死んだ時の年齢でいるらしい。

 ということは・・・超高齢化が進む日本の死後の世界はおじいちゃんおばあちゃんだらけなのだろうか?

 さらには、これは前にも書いたことがあるのだが、おれの祖母は九十代で亡くなった。祖父は太平洋戦争のとき、南方で三十代で亡くなった。相当に長い時間をかけて仏壇に祈るのだが、祖母の日課であった。

 ということは祖母が亡くなったとき、三十代の祖父は死後の世界で九十の婆さんに「妻です。お会いしたかった。毎日、仏壇で祈ってました!」などと告白されるのだろうか。

 ううむ。祖父としてもいささか困るのではないか。

 いや、よい作品に対して、申し訳ないのだが、おれはどうもアホウなことを考えてしまう。

 まあ、実際のところ、おれはあんまり死後の世界には興味がない。あるともないともわからないし、おれなんぞにわかるわけがないと思っている。逝けばわかるさ、なんぞと大束に考えている。 

英文日本語文の構造と翻訳の難しさ

 今、アメリカの作家ウィリアム・フォークナーの小説を読んでいる。

 最初に読んだ「八月の光」は割りに読みやすかったのだが、今読んでいる「アブサロム、アブサロム!」は読みにくい文が多く、苦戦気味である。

 何が読みにくいって、一文が長く、読んでいるうちにおれの頭の処理能力が追いつかなくなってしまうのだ。

 たとえば、適当に拾った文を転記してみよう。

私にはボンがヘンリーを、予告も警告もせずに、仮定より事実が先だとして、次第に典雅な遊びの界隈へと誘い込み、ゆっくりとその表面にさらしていく様子が目に浮かぶーーいくらか風変わりで、いくらか女性的にけばけばしく、それゆえヘンリーには華美で罪深く見える建物や、汗水たらして働く人間が綿花農場を横切ってゆっくりと少しずつ進んで手に入れるかわりに、蒸気船の積荷の量によって測られるような、巨大で、しかも安易に手に入れた富を創造させる豪奢なものや、無数の車輪の華やかなきらめきなどにさらしていく様子が目に見える、

 最後は「、」で切っているが、普通の文なら「。」で終わるところだろう。文章のリズムをつくるためにそうしているのだと思う。

 この文が読みにくい理由はふたつあるだろう。

 まず長い。文の構造が複雑である。おそらく原文をアメリカ人が読んでも、長くて読みにくいと感じるだろう。

 もうひとつは、英文と日本語文の構造の違いである。

 ご案内の通り、英文と日本語文では語順が大きく異なる。英文でたとえば:

主語A - 述語A - 目的語 - 関係代名詞 - 主語B - 述語B

 なんていう文があったとして、これを日本語文にすると:

主語B - 述語B- 目的語 - 主語A - 述語A

 という順番になる。

 短い文ならそれほど読みにくくないが、フォークナーの先の引用文のように、関係代名詞などで修飾 - 非修飾の関係がいくつもつらなると、文全体の意味の統御を成す「主語A - 述語A」がようやく最後に現れるので、「あれ? おれは今、何について読まされているのか?」とわからなくなってくる。

 フォークナーの文はおそらく原文でもわかりにくいのだろうが、それでも日本語の翻訳で読むよりは構造がわかりやすく、流れに沿って理解できるものになっている可能性はある。まあ、原文読んだわけではないので、わからないけれど。

 翻訳者が悪いわけではなく、これはもう、日本語という述語が最後に出てくる文型の宿命みたいなものだと思う。

 ともあれ、「アブサロム、アブサロム!」は読み下すのが大変だ。それでも話の筋は面白く、楽しみながら読んでいる。

痒みの描写

 おれはアトピー体質で、特に夏と冬にひどくなる。

 夏は汗をかくので、どうやらその汗の中の物質が皮膚に悪い反応を起こさせるらしい。己の体内からの物質で己の皮膚がやられるとはどういうことか、と思う。冬は乾燥するので、皮膚に隙間ができ(いわゆるドライスキン)、そこから外の悪い物質が入り込むらしい。ともあれ往生する。

 強い痒みというのはどうにも我慢のできないもので、「掻いちゃダメ」とはよく言われるし、わかってもいるのだけれども、どうにも我慢できないところがある。ええいままよ、と掻きむしると、これが刹那的に気持ちいいのなんの。快感を担当する脳内の箇所が刺激されるらしい。よくできてるんだか、悪くできてるんだか。

 ペルー出身の作家バルガス=ジョサの「世界終末戦争」という小説の中に、痒みにかんする描写が出てくる。ブラジルの荒野に宗教王国を作ろうとした集団に対し、ブラジル軍が攻め寄せるのだが、敵のゲリラ攻撃もあって苦戦し、膠着状態に置かれるなかでの話だ。病院のていもなしてない野戦病院で。引用する。

誰かが足もとで泣いているのでわれに返る。すすり泣くほかの患者たちとは違って、この患者は恥入ってでもいるかのように音をたてずに泣いている。老兵で、もうかゆくてがまんできないというのだ。

「引っかいちまったよ、先生さん」かれは小声で言う。「化膿しようとどうしようともうかまわんさ」

 この、化膿しようとどうしようともうかまわんさ、という心持ち、アトピーの強い痒みに襲われて掻くときと同じだ。掻いちゃダメ、とは理性の言葉であって、強い痒みの前ではそう理性を保てるものではない。

 この後の描写がすごい。

やつら野蛮人どもが用いる忌まわしい武器にやられたひとりだ。共和国兵士のかなりの数がカカレマ種の蟻に皮膚を噛みちぎられているのだ。皮膚を食いやぶって蕁麻疹を起こし、激しい痛みをひき起こすこの獰猛な蟻が、夜が涼しくなるにつれてすみかから出てきて眠っている人間に襲いかかるというのは、最初のうちは避けようのない自然現象だろうと思われていた。(略)

 胸の様子をのぞこうと老兵士のシャツをまくると、きのうの紫色のかさぶたが今日は赤いしみとなって、そのなかで小さな粒が激しくうごめいているのが見える。

 ひぃ。書き写していて、痒みがこっちにまで移ってきた。カイカイカイカイカイカイカイカイ。

 

動物のセクシーボイス

 昨日、自転車に乗っていたら急な雨にやられた。

 結構な土砂降りだったのだが、しばらくすると晴れた。途端に、アブラゼミがそこらじゅうでジィジィ鳴き始めた。いかにも夏という感じがする。

 アブラゼミで鳴くのはオスだけで、あの声でメスに己の存在をアピールするらしい。メスからすると、「あらん、いい声!」とあのジィジィにメロメロになるのだろうか。いわば、ジィジィはアブラゼミ・オスのセクシーボイスである。

 同じセクシーボイスでも、ウグイスの春のホーホケキョなんていうのはいかにも美しい。セクシーボイスだと思って聞いてみると、少しばかり色気があるような気もする。

 反対に、サカリのついた猫の声は人間からするとギャアギャアうるさい。あれのどこがセクシーボイスなのだと思うが、まあ、猫には猫の感じ方があるのだろう。アブラゼミやウグイスと違って、メスがオスにアピールすることが多いらしい。オスも同じような声で返すことがあって、「ギャアギャア」「ギャアギャア、ニャオーン」とやかましい愛のささやき(でもないが)もあったものである。

 人間も猫のような声で求愛しあったら、随分と面白いのだが。公園で、バーで、キャバクラで、「ギャアギャアッ!」と鳴き交わすのだ。色気も何もあったものではない。

興奮した議論

 安倍元首相が銃撃されて亡くなった。衝撃的ニュースである。

 こういうことが起きると、興奮してあれやこれやと議論する人が大勢出てくる。そうしたい気持ちも、まあ、わかる。興奮すると何かしないでいられなくなるのだろう。

 では、そうした論説なり議論なりが的を得ているかというと、なかなかそうはいかず、極論や単純化や乱暴な話が多い。

 日本の政治家が襲撃された事件のリストを見てみる。

 

過去には現役首相暗殺も 国内の主な政治家襲撃事件 - 産経ニュース

 

 政治家が襲われたことは過去にもあった。平均すると、5、6年に一度というところか。それほどは多くないという印象だ。今回の安倍元首相襲撃事件は長崎市長銃撃事件以来、15年ぶりである。

 今回の事件についていうと、容疑者の供述した動機はわかったようなわからないような、である。

 

安倍氏銃撃、特定の団体に恨みと容疑者供述 県警が銃数丁押収 | ロイター

 

 容疑者の言葉の通りとすれば、政治的主張や企図も、利害関係もなさそうで、かなり特殊なケースなのではないか。テロとか民主主義云々とはあまり関係なさそうに見える。

 興奮した議論は後々、あんまり役に立たないことが多い。