検便の思い出

 汚い話になって恐縮だが、便、特に大のほうは都合のよいタイミングで出なくて困ることがある。人にもよるだろうが、出てほしいときに出ないで、出ないでほしいときに出たがって、しばしば往生する。まあ、向こうには向こうの主張があるのだろう。

 この間、突然、ふいと思い出したのだが、小学校時代に検便が定期的にあった。小学生といえば、ウンコチッコに異常にコーフンする時代であるからして、検便はちょっとしたイベントだった。

 ある同級生、仮にS君としておこう。S君は検便のその日の朝、大が出なかった。学校で「出ませんでした」と先生に報告すると、妙に囃し立てられるはずだから(今からするとなぜそんなことで盛り上がるのか、よくわからない)、困ったらしい。

 汚い話の重ね塗りでこれまた恐縮だが、おれのガキの時分、生まれ育った地方の町には野良犬が結構いた。糞もそこらへんにゴロゴロしていて、うっかり歩いていると、ぐにゅっと踏んでしまったものである。

 S君は登校途中、そうした野良犬の糞に目をつけた。棒か何かで糞の一部をすくいとり、検便の容器に収めて、やれよかったわいと学校で先生に提出した。

 二、三日して、校内放送がかかった。

「○年○組のS君、○年○組のS君、すぐに保健室に来てください!」

 嫌な予感を胸にS君が保健室に行くと、保険の先生が大慌てで告げた。

「S君、すぐ入院しなさい! あなた、ジステンパーよ! 」

 以上である。汚い話で誠に申し訳なかった。

させていただく

「させていただく」という言い回しに違和感を覚える人は多い。評判があまりよろしくない割にはよく使われる。

 たとえば、「私から一言ご挨拶させていただきます」「そのようにさせていただきます」「少し考えさせていただきます」などと言う。こう書いてみると、相手を立てるように見せかけながら、実は一方的な発言に思われる。逆に言うと、一方的な発言を、相手とカドをたてないように丸めているとも言える。そういう機微がみえみえになると違和感を覚えるのだろう。

「いただく」は謙譲語で、へりくだった表現である。相手より自分のほうを落として語るわけで、落としていると見せかけて一方的なので、いわゆる慇懃無礼な感じがするのかもしれない。

 この「させていただく」という表現、いつ頃から登場したのだろうか。割に古い気もするし、しかし蔓延するようになったのは割と最近のような気もする。きちんと調べると面白いかもしれない。

 先に「相手を立てるように見せかけながら、実は一方的な発言」と書いたけれども、おれはこの「させていただく」を使うときには別の心理も働いているように思う。「いただく」は謙譲語で、相手に対してへり下っていると解釈するのが普通だが、一方で世間様に対してへり下っているようにも感じられるのだ。「いやいや、私のような小者が挨拶するなど、世間様に対して申し訳ないのだが・・・」というような心理が働いているのではないか。

 そう考えると、政治家が「させていただく」という表現を多用するのもよくわかる。何せ、世間様からの攻撃をいつも気にしなければならない立場の人々であるからして、「世間様に対して誠に恐縮なのであるが、エッヘン、こういうことにさせていただくのだ。選挙で落とさないでね」という心持ちが政治家の「させていただく」という七音には込められているんじゃなかろうか。

人口の話

 先週、国土の面積について書いた。カナダがアメリカ合衆国や中国より大きかったり、南アフリカがでかかったり、日本がドイツとほとんど同じくらいだったりと、ぼんやり思っていることとはいろいろ違いがあって、興味深い。

 では、各国の人口はどうだろうか。

 一番大きいのは言わずと知れた中国で、14億3600万人いる。2位はインドで、13億5300万人。肉薄している・・・と言いつつその差は8千万人くらいだからちょっとした大国(変な表現だが)くらいの違いはある。

 意外と人口の多い国というのもあって、インドネシアは2億6800万人。世界第4位である。その割にはあまり大国というイメージがないのは、政治・経済上のプレゼンスがあまりないからだろうか。スポーツなどでもあまり知られていない。

 日本は10位で1億2700万人。ひとつ上の9位はロシアで、1億4600万人。日本とロシアの人口が近いというのは意外であった。さらに日本と近いのは11位のメキシコで、1億2600万人。日本とメキシコはほとんど同じくらいの人を抱えている。メキシコ、意外に多い。

 日本より小さいが1億越えをしている国にエチオピアとフィリピンがある。エチオピアというのは日本に住んでいるとあまり親しみがないが、でかいというか、人の多い国である。エジプトとベトナムにも1億近い人がいる。

 日本とほぼ同じ面積の国土を持つドイツは8300万人。同じヨーロッパの大国イギリスが6700万人、フランスが6500万人で、ドイツがやや大きい。イギリスとフランスの人口を合わせると、おおよそ日本に近くなる。

 人口がそれほどでもないのにプレゼンスの大きい国にオランダがある。1700万人。人口に対して経済のプレゼンスが大きかったり、話題になる政策が多いせいもあるだろうが、サッカーや格闘技などで有名選手が出るせいもあるかもしれない。スウェーデンもプレゼンスの割に意外に少なく、1000万人である。

 ぐっと少ないほうに目を向けると、サモアが20万人。トンガが10万人。日本なら中小都市くらいの人口だが、ラグビーのワールドカップに出続けているのだから大したものである。

 世界で一番人口が少ないのはニウエで1500人。不勉強で、聞いたことのない国だったのだが、オセアニアの東部にある島国で、ニュージーランド王国の構成国なのだそうだ。日本のマンモス小学校くらいの人数で、頑張れば全員の顔と名前を覚えられそうだ。

 なお、人口の数値は2020年版の世界保健統計(2018年調査)からとった。

国の面積

 今、南アフリカの元大統領でノーベル平和賞受賞者、ネルソン・マンデラの自伝「自由への長い道」を読んでいる。上下二巻あって、読むのもなかなか長い道である。

 考えれば当たり前だが、読んでいて、おれは南アフリカという国についてなーんも知らんなー、と思った。知っていたことと言えば、アフリカの最南端の国であること、アパルトヘイトと呼ばれる人種差別的法律/政策が世界の国のなかでも随分後まで続いたこと(1990年代まで)、金やダイヤモンドが獲れること、あとは映画の「インヴィクタス」で描かれたラグビー・ワールドカップ1995で優勝した南アフリカ代表のことくらいか。

 首都がプレトリア(正しくは行政府。立法府ケープタウンに置かれる)であることすら知らなかった。ケープタウンはアフリカ最南端の希望峰近くの港湾だから、何となく位置はわかっていたが、南アフリカ最大の都市、ヨハネスバーグの位置も知らなかった。ヨハネスバーグは南アフリカの北東にあり、ケープタウンは南西だから、南アフリカのほとんど対極にある。プレトリアヨハネスバーグの北55kmだそうだ。

 ヨハネスバーグとケープタウンの間の直線距離は約1,300km。北海道の札幌から愛媛県の松山くらいまである。マンデラはもともとヨハネスバーグを活動の拠点にしていて、有罪となってからはケープタウン近くのロベン島に(30年の受刑者生活のうち)18年収容されていた。

 南アフリカは日本のような長っぽそい島国ではなく、面積はでかい。

 日本の陸地面積38万km2に対し、南アフリカ122万km2である。

 それでもアフリカの中ではごく一部に過ぎないのだから、いやはら恐れ入る。

南アフリカの位置

 では、日本が小さいのかというとそういうわけでもなく、日本の陸地面積は世界で第61位(南アフリカは24位)。よく「この小さな国、日本は〜」などという類の言い方がされるが、世界的には別に小さくはない。62位はドイツで、69位にポーランド、71位にイタリアがいる。

 世界最大の国は言わずとしれたロシアで約1,700万km2と群を抜いている。その次がカナダ、アメリカ合衆国中華人民共和国で1,000万km2近くである。カナダのほうがアメリカより大きいというのはちょっと意外だった。

 もちろん、大きければよい、小さいのはよくないというわけではない。大なることを誇るのは己の器の小ささをばらすようなものである。

 ただ、昔のように歩くか、せいぜい馬で移動していた時代のことを考えると、大きな国についてはちょっと気が遠くなるような気もする。

 

自由への長い道(上) ネルソン・マンデラ自伝
 

 

 

自由への長い道(下) ネルソン・マンデラ自伝
 

 

ある抵抗感

 12月24日にはSNSで「メリークリスマス!」が連発される。毎年、この時期になると感じるのだが、あれ、抵抗感を覚えないのだろうか。

 クリスチャン、あるいはそれに近い心情の人たちがメリークリスマスを言うのはいい。それは信者として当然だ。しかし、そうでない人たちがメリクリ、メリクリ、メリクリ言っているのを聞くと(読むと)、あんなあ、おまーら、と谷岡ヤスジの登場人物と化して疑問に思うのだ。

 よく日本人は正月に神道(初詣)、お盆・お彼岸に仏教、クリスマスにキリスト教、などと言われる。もちろん、日本人だから全てがそうというわけではないが、割とのんきに宗教がらみのイベントを受け入れる人は多いと思う。

 自分の身をふりかえってみると、確かに、神社に行けばそのときには神道の神を多少は信じている気になるし、お墓参りすれば仏教というか、あの世的なことやアニミズム的なものを少し考える。法事に坊さんの説教を聞けば仏教的な価値観を近しいものに思う。いい加減といえばいい加減だが、その時々で態度や立場をすりかえる、なかなかに素早い身のこなしではある。

 クリスマスを祝うのも同じようなことだろうか。しかし、クリスマスで騒いでいる人たちのみんながみんなイエス・キリストの誕生を祝っているとも思えず、要は楽しい年中行事、さまざまな道具立てで華やいだ気分になるイベントとしてメリクリ、メリクリ言っているんではないか。

 おれはお祝いごとやお祭りごとがあんまり好きではなく、めでたい気分になるのは正月くらいである。誕生日も、クリスマスも祝わない。おまけについ物事を斜めに見てしまうクセがあるから、そんなふうに感じてしまうのかもしれないが。

 最近は若い人を中心にハロウィンを祝うようになってきたし、そのうち、感謝祭やらラマダーンやら始めるんじゃないかと、少々あきれて世の中をおれは見ている。

文明と文化

 マーケティング方面にイノベーター理論というのがあって、真新しいテクノロジーや製品、サービスをいつ頃受け入れるかを5つに分ける。早い順にイノベーター、アーリーアダプター、アーリーマジョリティ、レイトマジョリティ、ラガードという。

 イノベーターは真っ先にイノベーティブなものを取り入れる人、いち早く取り入れるのがアーリーアダプター、割りに早めなのがアーリーマジョリティ、遅めなのがレイトマジョリティ、よほど普通のものにならないと取り入れないのがラガードと言われる。最後のラガード(Laggard)は「のろま」「ぐず」という意味だから、このイノベーター理論を言い始めた人は鼻持ちならない感じはする。

 おれについて言うと、たいがいのものに対して、レイトマジョリティあたりだろう。「んじゃま、そろそろ使ってみるかね」くらいのものであるし、それで特に困ることもない。

 ワカゾーだった頃はMacや音楽ソフトなんかがどんどん発展していて夢中になったりしたが、30代の頃から新しいものに対して「へええ」くらいの態度になり、今では「はああ」である。こういう態度を小馬鹿にしたくなる人もいるのかもしれないが、まあ、お互い別の世界で生きていこう、バスで会っても知らん顔しよう、と思う。

 新しいテクノロジーというのはたいがい風情がない。味わいがない。あっても、薄っぺらい。

 立川談志が何かの話のマクラで、「文明というもので満たされない人にうるおいを与えるのが文化でしょう」というようなことを言っていた。正確にはちょっと違ったかもしれない。

 ともあれ、談志の言う「文明」をテクノロジーに、「文化」を風情・味わいに置き換えてもよさそうだ。「テクノロジーというもので満たされない人にうるおいを与えるのが風情や味わいでしょう」というわけだ。

 面白いもので、最新のテクノロジーと思われていたものも、だんだんと風情・味わいを身につけていく。ピカピカの最新鋭だった建物がだんだんヨレ、すすけてきて、ひびが入ったり、植物に取り巻かれたりして、味わいが出てくるようなものだ。テクノロジーだけだと、そのうち面白くなくなってくるんだろう。

 風情・味わいが出てくる頃にはテクノロジーとしては時代遅れになっているのかもしれないが、なに、風情・味わいがあればいいではないか、と思う。おれたちは別にテクノロジーに仕えるために生きているわけではないのだ。

人間だもの

 相田みつをという詩人というか、書家というか、そういう人がいて、人についての「いい言葉」をやたらと書きまくった。結構好きな人は多いらしい。

 おれは馬鹿者なので、あんまり関係ないところで生きてきたが、いくつかの作品(というのか?)は知っている。有名なのは、「しあわせはいつもじぶんのこころがきめる」というもので、そのほかにもまあいろいろある。

 「なんたらかんたらなんたらかんたら 人間だもの」というのもあって、今とっさに調べると、「つまづいたっていいじゃないか 人間だもの」だそうだ。

 ふとこの間、最後の「人間だもの」をつければ、たいがいのことは許してもらえるんじゃないかと思い当たった。

「遅刻しました 人間だもの」

「からみ酒しました 人間だもの」

「寝小便しました 人間だもの」

 とにかく、人間なんだから失敗してもしょうがない、とまあ、逃げ口上としては非常に使いやすい。

 とはいっても、さすがに、

「使い込みしました 人間だもの」

「半殺しにしました 人間だもの」

 となると、なかなか許してもらえそうにない。人間だもの、で許してもらえるラインはどの辺にあるのだろうか。