インスパイア

 オレオレ詐欺の手口がどんどん巧妙になっているそうだ。


 といっても、どんな手口があるのか、よく知らない。たまに新聞・テレビで取り上げられるものを見る程度である。


 もちろん、被害にあった人は気の毒だ。人の不安な心理や心配につけ込む、不埒なやり方である。
 が、私が気の毒だ、気の毒だ、不埒だ、不埒だ、と言ったところでオレオレ詐欺がなくなるわけではない。例によって現場から一粒300メートル遠ざかり、思いつくことを出たとこ勝負で書こうと思う。


 最近は、オレオレ詐欺も有名になって、あからさまに「オレだよ、オレ」などと電話をかけてくるケースは減ったんじゃないか(数値的なことは知らない)。
 あるいは、「オレだよ、オレ」と上京した息子がひさしぶりに電話をかけてきたのに、「てめえ、オレオレ詐欺だろ!」と瞬間湯沸かし器と化した父親が喚き散らし、良好なる親子関係というものが、百億光年の彼方へ飛んでいった家族もあるかもしれない。
 そのせいか、「振り込め詐欺」という言い方も出てきているようだ。


 しかし、こういう名称はインパクトがあったほうがよい。たとえば、「ボクちんだよ、ボクちん。交通事故、起こしちゃったあ」と言ったからといって、「ボクちん詐欺」では、何かこう、迫力というものに欠ける。やっぱり、BSEより狂牛病。世界の坂本、日吉のイナモト、なのである。
 何がなんだかわからないが、ともあれ、ここではオレオレ詐欺に統一する。


 オレオレ詐欺の手口の進化というのは、ウイルス(自然界のものもコンピュータ・ウイルスも含めて)の進化に似ているように思う。
 最初にシンプルな手口・ウイルスがあって、多くの人が被害に遭う。しかし、だんだん敵のやり方というものがわかってきて、警戒が強まり、対抗策・抗体ができてくる。
 犯人はその上を行こうと、手口・ウイルスを複雑化させ、また多くの人が被害に遭う。
 あるいは、手口・ウイルスを分析して、バリエーションを作っていく不埒な者も他に出てくる。
 それらのやり方もだんだんわかってきて……と、まあ、そんなふうに複雑化・多様化していくのだ。


 と、ここまで書いてきて、オレオレ詐欺の複雑化・多様化は、ウイルスよりも、むしろ、表現の複雑化・多様化に似ているんじゃないか、と思えてきた。


 たとえば、水滸伝というのは、もともと、シンプルな話だったのだそうだ。語り伝えられるうちに、どんどん登場人物が増え、話もふくらんでいったらしい。
 本になってからも、かつての中国には現代的な意味での著作権はなかったから、いろんなバージョンができていった。


 最初は、どこかの拠点(梁山泊ではなかったらしい)にツワモノどもがだんだん集まり、盗賊団として大暴れするという話だった。
 で、普通に暮らしていたツワモノが不運な事件の果てに梁山泊へ行かざるを得なくなる、という基本コンセプトが受け、いろんな人物のいろんな話がいろんな人によって付け加えられていった、と、そういうことのようだ。


 “基本コンセプト”が“受け”、“インスパイア”された人が“新バージョン”を付け加える。これが、骨組みである。
 オレオレ詐欺の多様化・複雑化も、水滸伝の成り立ちも、この骨組みに沿っている。オレオレ詐欺の場合は、“受け”たのが、不埒な者どもであった。
 浄瑠璃についてはほとんど何も知らないが(知らないことだらけだ。スマン)、たとえば、さまざまな心中物が生まれた過程というのも、同じようなものだったのかもしれない。


 あるいは、絵画の印象派。あれは、モネが展覧会に「印象、日の出」という絵を出したところ、評論家から「なるほど、印象的にヘタクソだ」と叩かれて有名になったらしい(それにしても、イカした評論ですね)。


 ああいう画風はモネだけの創作ではなく、おそらくは画家のサークルのようなものがあり、その中でだんだんできあがっていったものなのだろう。
 そうであったとしても、そのサークル内や、サークル外の画家までが印象派となるには、やはり基本コンセプトにインスパイアされ、新バージョンが付け加わっていく、という過程が必要だったと思う。


 ここまで書いて、今頃、気づいたのだが、オレオレ詐欺はそもそも“お話”を被害者に信じ込ませるという、まさに表現そのものなのであった。犯人の方々には、もう、こうなったら、全三十巻、一族百年の流れを追う壮大な大河ストーリーにまでふくらませていっていただきたい。


 ともあれ、表現が潮流となるうえで重要なのは、インスパイアされた者の想像力である。


 なるほど、腕のいい詐欺師に必要なのは想像力(と演技力)だ。それは、映画「スティング」のポール・ニューマンを見ればわかる。


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