歴史をストーリーで語ること

 今を去ること三十年も前になるが、おれは大学時代、文化人類学というコースに所属していた。文化人類学の大きなテーマのひとつに神話があり、おれは自分でコースを選択しておきながら、「なんでこんな浮世離れしたことを研究するのかなー」などと鼻くそをほじっていた。

 今になってみると、ああいう神話研究は現代社会にもいろいろ示唆を与えるものだったんだろうなー、と思う。ただ、鼻くそをほじっていたため、どういうふうに示唆を与えるのかまでは話せない。遺憾なことである。

 ちょっと話がずれるが、歴史はしばしばストーリーとして語られる。たとえば、「戦国時代に織田信長という英傑が現れた。合理主義に基づいて数々のイノベーティブな施策・戦術を編み出し、日本の覇権をほとんど手にしていたが、明智光秀という保守的な文人武将に謀反を起こされ、本能寺の炎の中に倒れた」とか、「19世紀半ば、欧米の帝国主義が日本にまで達した。組織的に金属疲労を起こしていた幕府はこれにうまく対応できなかった。危機意識を持つ下級武士の運動によって西日本の雄藩が立ち上がり、幕府を駆逐して、明治日本が生まれた」とか、なんとかかんとか。

 ストーリーというのは大変に便利なもので、まず面白い。そして、おそらく神話伝説がそうであるように、ディテールの中にさまざまな価値観を封じ込めることができる(たとえば、現代に流布している坂本龍馬の伝説には「若さと夢と行動は素晴らしい」という価値観が封じ込まれている)。そして、物事をある種の実感をもって理解させる。

 一方で、ストーリーは比較的シンプルな内容しか語れない。話の焦点もごく一部に当てられるだけである。焦点の当てられなかった部分は、本当は重要であっても、語られない=なかったも同然、となってしまう。そして、最大の問題は、ストーリーが面白ければ面白いほど広まってしまい、さまざまなバリエーションを生みながら史実とは無関係な方向へ、より「面白い」方向へ、と変化していくことだ。

 NHK大河ドラマが典型で、あれは史実という観点からすると、ほとんど無関係というか、でたらめである。しかし、多くの人が史実とストーリーをごっちゃにしたまま、より面白いもの、新しいバリエーションを求めるものだから、どんどんどんどん話が拡大再生産、というか、拡大変形生産されていってしまう(たとえば、忠臣蔵のさまざまなバリエーションを比べてみればよい)。そして、いつのまにか、既定の事実のように思われてしまう。

 おれは歴史のストーリー化はこれからいっそう害をなすんじゃないかと危惧している。国際的に人がどんどん行き来し、入り混じっていくなかで、社会それぞれで育ってきたストーリーがぶつかり合い、摩擦を起こしそうだ。お互いに出処と価値観が別々のストーリーをぶつけたって、なかなかほどよいストーリーはできあがらないだろう(なぜならあまり面白いものにならないから)。また、いろんなルーツを持つ人はどのストーリーを信じればよいのだろうか。

 ストーリーはストーリー、史実は史実(講談は講談、事実は事実)と切り分けられればいいのだが、実際にはストーリーが史実を動かしてしまうところもあるから、むつかしい。