正義についてただす場としての法廷

 映画「黒い司法」を見た。

www.netflix.com  アラバマ州の黒人死刑囚の冤罪を証明するために、若い黒人の弁護士が奔走する様を描いた映画だ。舞台となる1980年代のアラバマ州は保守的で、黒人差別の強い地域で、死刑囚のジョン・Dは司法取引で偽証を行なった重罪犯の証言だけで有罪となってしまった。判決の背景には差別だけでなく、犯人を挙げることで町の安寧を図るという警察・検察・司法側の意識も働いている。

 黒人の弁護士と死刑囚の物語だから日本語タイトル「黒い司法」とはあまりに安直ではないかとも思うが、ある種の仕組まれた裁判だから「黒い」とも言える。微妙なタイトルではある。

 映画としては、死刑囚ジョン・D(ジェイミー・フォックス)の人間性が丁寧に描かれていて、よかった。

 アメリカ映画には法廷劇を取り上げたものが多い。日本映画には法廷劇はあまりなく、ぱっと思い浮かぶところでは「それでもボクはやってない」くらいか。ヨーロッパの映画はどうだろう。これまたあまり思い浮かばない。

 アメリカに法廷劇が多いのには理由がありそうだ。法廷というものが裁きを下す場というだけでなく、社会正義について議論する場と考えられているせいもあるのではないか。よくアメリカの法廷映画では弁護人が演説を一席ぶつ。あれは、この法廷にはどういう意味があるのか、社会正義は何か、ということをテーマとして掲げる意味ががあるのだろう。陪審員の判断が重視されるのも、おそらくアメリカ合衆国の初期の頃から、社会正義について議論する場としての伝統が生きているのだと思う。アメリカ独特の民主主義のあり方が表れているように思う。民主主義とは選挙だけではないのだろう。

 日本はどうかというと、オカミが裁きを下す場という認識が強いように思う。極端にいえば、遠山の金さんのお白洲がそのまま現代の裁判所に移った感じだ。映画「それでもボクはやってない」についても、日本の司法の硬直したあり方を問う面が強く、法廷が社会正義についての議論の場ととらえられてはいなかった。

 明治の頃にドイツから法律や司法制度を翻訳・輸入した歴史が、現代の裁判のありようにもそのまま生きているのかもしれない。