許されざる者

 特に書くことも思い当たらないので、少し前に見た映画の話。李相日監督、渡辺謙主演の「許されざる者」。

→ 映画「許されざる者」公式サイト

 クリント・イーストウッド監督の同名作のリメイクである。時間つぶしのために映画館であまり期待せずに見たのだが、思いのほかよくて、儲け物であった。明治の開拓期の北海道が舞台で、女郎の顔を傷つけた農民に女郎達が賞金をかけ、渡辺謙扮する主人公達がやっつける。最後に「悪」をのさばらせていた町の警察署長(佐藤浩市)を叩っ斬る、という内容。
 渡辺謙の、我慢して、我慢して、最後に怒り爆発、血みどろになって大暴れ、というパターンは、クリント・イーストウッドというより、高倉の健さんの「昭和残侠伝」のそれである。ためて、ためて、ドッカーン、というしぶり腹を解消するような解放感を楽しめる。ただし、目をそむけたくなるような残虐シーンがあるので、その手の映像が苦手な方にはキツいだろう。
 出演者はいずれも好演していてよかったが、特に、女郎のリーダー格を演じた小池栄子が美しく、その目の光の強さにクラクラきた。この人、将来は大女優になるんではないか。
 でまあ、ここからはリクツになるのだが、イーストウッド版との比較。
 イーストウッド版では、悪をのさばらせていた保安官(ジーン・ハックマン)が最後に倒される。彼こそは「許されざる者」(原題は“Unforgiven”)なのだが、その背後にはそうした保安官を恐怖のゆえに放置していた住民達がいる。アメリカでは保安官は住民達によって選任される建前だから、実は住民達こそが「許されざる者」だったと考えることもできる。個人、個人に強さあるいは自覚がないとデモクラシーはずるずるになる、というクリント・イーストウッドの作品に共通して見られるテーマで、イーストウッド版はアメリカのデモクラシー、あるいは自治、責任についての批評にもなっている。
 一方で日本の李相日版の場合、悪をのさばらせていた警察署長は上から任命された官吏である。だから、警察署長を倒すことはあくまで私憤、あるいはせいぜい権力側への異議申し立てということにしかならない。最後に警察署長を叩っ斬るとき、その場にいた住民達が何人も斬られるが、巻き添えを食ったとしか見えない。彼らには警察所長を変える手段がないから、所長の恐怖に支配されるわ、渡辺謙に斬られるわで、踏んだり蹴ったりである。健さんの「昭和残侠伝」の最後の大立ち回りでバサバサ斬られるやくざの手下達と同じで、彼らはあくまで劇を盛り上げるための「道具立て」に過ぎないんですね。政治テーマという点ではイーストウッド版のほうが深く、重いとおれは思う。
 とまあ、いささかミソをつけたが、李相日版は映像も美しく、丁寧に作られていて、おすすめである。まだ公開しているようだから、「昭和残侠伝」やクリント・イーストウッド作品が好きな方はどうぞ。