構造と乳牛

 インターネットというのはネットワークのネットワークで、その中ではいろんな情報がつながりあっているからして、時折、意表をつくものに出会うことがある。
 今日はこんなものに出くわした。

→ フォト蔵 - 渋過ぎる乳牛の秘密w

 ダハハ。何じゃ、こりゃ。
 検索してみると、マルサンという会社のプラモデルで、乳牛の肉体を組み立てるものであるらしい。おそらく、企画者は教育目的もにらみつつの大真面目だったのだろうが、素の目で見ると、いわゆる「バカプラモ」に分類されざるを得ないだろう。断腸の念を禁じ得ません。
 しかし、こういう構造物の組み立てというのは案外と教育に活かせるのではないかとおれはふと考えたのであった。
 話はちょっとズレるが、おれが美青年であった大学生の頃、構造主義という言葉が流行っていた。おれは「構造」という言葉の意味するところが今ひとつよくわからず、蹴つまづいた。「利権の構造」とか、「構造的問題をはらんでいる」とか、そういう言葉遣いもどうもピンとこなかった。今となってはなんでそんなところで蹴つまづいたのか不思議にも思うのだが、もしかすると、高校時代までの教育の中で構造という考え方にあまりふれることがなかったからかもしれない。
 で、そんな自分の苦笑い的記憶もあって、ブロック的な何かを使って組み立てることで構造という捉え方を理解するということは、早い時期の教育に案外と役立つんではないかと考えた。
 世の多くのものは構造を持っている。器官の組み合わせということで言えば、人間も動物も植物も構造を持っているし、建築物だって、機械だって、権力だって構造を持っている。もっとミクロな、細胞だって、分子だって、あるいは巨大な天体レベルのものだって構造を持っている。構造というのは物事の捉え方の重要なひとつだと思うのだが、少なくともおれが凄まじい美少年だった(「凄まじい」は「すざまじい」と読んでいただきたい)中学生、高校生の頃には構造に焦点を当てた教育はあんまりなかったように思う。単におれがぼんやりしていただけかもしれないが。
 自分で組み立ててみることで構造を理解するというのはなかなかいいアイデアだ(「今日は乳製品の輸入に関する利権構造を組み立ててみましょう!」なんていう授業をやるわけだ)、おおこれぞ教育の構造改革だ、と考えたのだが、一方で先の「乳牛の秘密」のごとく、ただ組み立てるだけでストンと腑に落ちるかどうかはまあ、怪しい。言われる通りにただ作業をしても構造を理解できるとは限らず、理解には関心なり興味なり自分ごと的な何かなりが必要であって、そのあたり、ただ組み立てるだけでは、ンー、やっぱダメか。
 今日もまた話は龍頭蛇尾に終わるのであった。