日本語文の特性 - 修飾が先、述語が最後、の不便さ

 おれはコピーライターという仕事をしている。広告宣伝の仕事はそれほど多くなく、主に企業に頼まれて雑多な文章を書いている。現代の代書屋である。

 代書屋であるからして、文章に接したり、自分でひねくり出したりするのが飯のタネだ。飯のタネだから、日本語文の特性について考えることがままある。

 言語と別の言語には、翻訳しやすい/しにくい相性があると思う。もっとも、おれが操れるのは日本語だけで、英語がどうにかこうにか理解できる程度だから、いささかたよりない仮説ではあるが。

 はっきり言って、日本語と英語は相性が悪い。文の構造がまるで違うんだから、仕方がない。

 今、手近にある英語の本から文章を抜き出してみよう。

The second thing to understand is that the problem of insecurity cannot solved by spreading people out more thinly, trading the characteristics of cities for the characterisitics of suburbs.

(“The Death and Life of Great American Cities”, Jane Jacobs)

 イチかバチか訳してみよう。

ふたつ目に理解すべきあのは、不安の問題は、人々を外へと薄く引き伸ばして、都市の性格と郊外の性格をトレードしても解決されないことだ。

 この日本語文を一度でさっと理解できる人はなかなかいないのではないか。おれの訳の不味さのせいだけではない。英語の構造に沿って書かれた文章を、全然別の構造を持つ日本語文に置き換えるのにはムリがあるのだ。

 英語は、一般に、主要な単語が先に来て、それを別の言葉が修飾するという構造になっている。また、主語、述語が先に出てくる。文の中の重要な要素(主語、述語、主要な単語)が先に出てきて、修飾する言葉が後に来るから、文を読み進みながら理解しやすい。

 一方、日本語は修飾する言葉が先に来る。述語が最後に出てくる。長い文だと、一文まるまる読み終わるまで何を言いたいのか理解できないことが多い。長い、長い文を読んで、最後に「ということはない。」などと否定形でどんでん返しされ、内股を食らったような心持ちになることもある、ということはない、とは思わない。

 思うに、日本語の元ができた頃は文が短くて済んだのだろう。「強い敵が来る」「木に赤い実が成った」「あっちの海で大きな魚が釣れた」などというふうに。修飾部分が先に来たり、述語が最後に出てきたりしても大して問題なかったのだと思う。

 ところが、社会がややこしくなってきて、複雑な物事を言わなければいけなくなったとき、修飾部分が先に来る、述語が最後に来る、という日本語の構造はなかなか不便になってきた。もしかすると、日本語の語順を変える、という大実験をどこかの段階でできたのかもしれないが、それをやらずに来てしまった。

 まあ、ここまで来たらこのまま続けるしかないのかもしれない。しかしまあ、ややこしい内容を言わねばならない実用文については不便な言葉であるよ、日本語は。