語り物盛衰

 日本には語り物の系譜というのがあって、能や謡曲、平曲から浄瑠璃浪花節まで芸能の大きな柱だった。浄瑠璃はさらに、義太夫節豊後節常磐津節、富本節、清元節新内節などに分化していく(んだそうだ)。正直、おれにはどれがどうというのはよくわからない。まあ、義太夫と清元が随分と違うんだな、これが同じルーツを持つのかね、と、聞いて思う程度である。
 浪花節は戦前に隆盛を極めたそうで、浪曲師はそれこそ札束を胸元に押し込むくらい儲かったらしい。しかし、戦後になって急速に廃れた。理由はわからない。演歌には多分に浪花節の影響があるけれども(三波春夫や村田英雄は確か浪花節の出身である)、ストーリーを語る要素はほとんど抜け落ちた。
 浪花節に限らず、語り物全般に今はふるわない。もちろん、それぞれの分野で大変な実力のある人はいるのだろうけれども、かつてのような芸能の主柱とは言えないと思う。せいぜいが歌舞伎の劇付随音楽としての浄瑠璃が割に耳にされるだろうけれども、それとて多くの人は役者を見に行っているのであって、浄瑠璃を聞きに行く人は少数派であろう。
 日本人には語り物のDNAがある、などとはもちろん言わない。そんなDNAが発見されたらそれこそノーベル賞ものどころか、驚天動地、天地創造、怒髪衝天ものである。しかし、何百年と語り物を楽しんできたしっぽの先っぽくらいの感受性は、見るもの聞くものを通じて今も残っているんではないか。今の感覚にあったやり方というのもあるかもしれない。
 いささか安易な発想だが、ラップで坂本龍馬のエピソードなんかを仕立てるとどうなるだろう。「そこで龍馬はこう言った、ヤー、ズドドドドド」。何だかよくわからんが案外と聞けるものになるんじゃなかろうか。できることなら、テキストに起こすときは〽(歌ひっかけ)をつけていただきたい。