翻訳・心中宵庚申

 試しに、近松門左衛門作の浄瑠璃「心中宵庚申・上田村の段」の一部を、現代語に翻訳してみよう。


 大阪に嫁いだ娘・千代が夫・半兵衛の留守中に、姑によって強引に離縁され、故郷の山城・上田村に駕籠で帰されてくる。
 千代は妊娠しており、半兵衛にも惚れているから、辛いのなんの。姉のおかるとともに、泣きの涙、という場面である。


 原文はこう。カッコは原文になくて、わたしが補足したところ。


(千代)「いや後(のち)の月半兵衛殿、父御の十七年の弔ひのため、生まれ故郷遠州の浜松へ。『戻り次第道具に添へ暇の状は後から。まづ往ね』、と訳も云はずお腹に四月たゞもない身を、姑御が手を取って駕籠にに引き摺り乗せ、酷(むご)い辛い」
とばかりにて、嘆くを
見れば痛々しく
(おかる)「子のあるものを夫の留守、暇くれる姑、心に一物あるわいの。伯母婿ながらそなたの親分、高麗橋二丁目川崎屋源兵衛殿差置いて、すぐにこゝへ突き付ける仕方も憎し。よいよいこちの人が京からの帰りを待つて詰め開かせ、モ大抵で暇は取らぬ。とは云へ世上の女夫仲(めおとなか)、去るといふこと誰(た)が拵(こしら)へ、憂ひ目をさせる可哀や」


 涙で画面がよく見えません。


 現代の標準語にすると、こうだろうか。


(千代)「いや、後の月(旧暦九月十三夜の月)に半兵衛様は、父上様の十七回忌のため、生まれ故郷の遠州浜松へ行かれました。『半兵衛が戻り次第、道具と共に離縁状は後から送るから。まずは行ってしまえ』、と訳も云わずに、お腹に四ヶ月の子どもがいる普通ではない体を、姑様が手を取って駕籠に引きずり乗せて、むごい、辛い」
とばかりに嘆くのを、
おかるは見ると、痛々しくて、
(おかる)「子どものあるのを夫の留守に離縁させる姑は、心に一物あるんだろうね。伯母婿とはいえ、おまえの仮親の、高麗橋二丁目川崎屋源兵衛様を差し置いて、すぐにここへ突きつけるやり方も憎たらしい。よいよい、うちの人が京から帰るのを待って掛け合わせて、まずまず離婚はさせないから。とはいっても、評判になるほどの夫婦仲、離婚を他の者が仕立てて、哀しい目に合わせるとは可哀想」


 訳の下手さは差し引いても、これ、読むだけならまだしも、語りとして聞くと、メタメタだろう。爆笑を呼ぶかもしれない(試しに声に出して読んでみていただきたい。実に奇妙である)。


 標準語は一種、平均化した言葉で、話し言葉の温かみ、癖のようなものをある程度、切り捨てている。だから、セリフとして語ると変になりやすい。
 では、近松門左衛門は上方の人だし、話し言葉として、現代の関西弁にするとどうだろう。


(千代)「いや、後の月に半兵衛様は、父上様の十七回忌で、生まれ故郷の遠州浜松へと行かはって。『半兵衛が戻ったら、すぐに道具と一緒に離縁状、送るさかい。とっとと行ってまえ』。訳も言わんと、お腹に四月(よつき)の子ぉがいる身を、姑様が手ぇつかんで、駕籠に引きずり乗せて、むごい、辛い」
とばかりに嘆くのを、
おかるは見ると、痛々しゅうて、
(おかる)「子ぉのあるのを夫の留守に、別れさすとは姑の、腹に一物あるんやろ。伯母婿言うても、お前の仮親・高麗橋二丁目川崎屋源兵衛様を差し置いて、すぐにここへ突きつけてくる、そのやり方が憎いわい。よいよい、うちの人が京から帰るのんを待って、掛け合って、まず離縁なんかさせへんよってに。言うても、評判なるほどの夫婦仲や、離縁さすと他の者が仕立てて、哀しい目ぇに合わすのんは可哀想(かわいそ)や」


 わたしは関西の人間ではないので、変なところがあるかもしれない。
 しかし、つるっとした標準語訳よりは、まだ語りに合うようである。いささか冗長になってしまうところが我ながら苦しいが。


 ついでに、私の故郷の富山弁だとどうなるか。富山弁の浄瑠璃というのはおそらく前代未聞だろう。


(千代)「なーん、後の月にいね、半兵衛様は、父上様の十三回忌でねえェ、生まれ故郷の遠州の浜松へ行ったがやちゃ。『半兵衛が戻ったらすぐ、道具と一緒に離縁状、送っから。まず行かんけ』、と訳も言わんと、お腹に四月の子がいる体なんを、姑様が手ぇつかんで、駕籠に引きずり乗せんがやぜ。むごい、辛い」
と嘆くがを、
見るとォ、痛々しくてねえェ、
(おかる)「子どもあるがを、夫の留守に別れさせる姑ちゃ、心に一物あんがやろね。伯母婿ゆうてもあんたの仮親の、高麗橋二丁目川崎屋源兵衛様を置いといてえェ、すぐここへ突きつけてくるゆうやり方が憎いねか。大丈夫やちゃ、うちの人が京から帰ってくんがを待っていね、掛け合ってねえェ、まず離婚なんかさせんちゃ。そんでも、評判なるくらいの夫婦仲やし、離婚するゆうがを他のもんが仕立てて、哀しい目に合わすちゃまた、なんちゅ可哀想なんけ」


 何でもかんでも今の話し言葉にすればよい、というものではないようだ。


 まあ、結論としては、わたし程度の腕では、訳すより、近松作の原文がベストである(当たり前である)。


 ただ、古典の語り物は少々、聞く側に慣れが必要で、その慣れるまでが「お勉強」になってしまうと、客が敬遠してしまう。


 現代では意味の通じない言葉(例えば、上の例では「後の月」、「暇の状」、「親分」、「こちの人」、「詰め開く」、「去る(離婚する)」)もあり、そこで頭が一瞬、パーになる。
 読み物なら、読者の側でいったん読むのをやめて、辞書で調べるなり何なりできるが、語り物はどんどん流れていくので、ツラい。


 そこらが現代における古典芸能の難しいところで、大げさにいえば、残るか、廃れるかの問題すら孕んでいると思う。

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「今日の嘘八百」


嘘七百四十四 昨日、中華料理屋でヤキソバを食べていたら、あちこち痒くなってきた。海老か貝にでも当たったかとメニューを見てみたら、「疥癬焼麺」と書いてあった。