カリフォルニアの青い空

 今まで聞き流していた歌のことが妙に気になることがある。


 数日前、アルバートハモンドの「カリフォルニアの青い空(It Never Rains In Southern California)」がふと気になった。



アルバートハモンド「カリフォルニアの青い空」


 どこかで聞いたことがあるでしょう?


 わかりやすいメロディとも相まって、“やさしさ”あふれる(うー、痒い)ノーテンキなカリフォルニア・バンザイ・ソングかと思っていたのだが、調べてみると、苦くてなかなかいい歌詞なのである。


 逐語訳はしないが、かいつまんでストーリーを紹介すると、こんなふうだ。


 カリフォルニアに行けばテレビや映画に出られると聞いて、飛行機に乗った。
 しかし、仕事にあぶれ、頭がおかしくなってきて、自尊心も失い、愛されもせず、食べる物にすら困っている。
 南カリフォルニアでは雨が降らないらしい。
 でも、本当は土砂降りの雨が降る。


 夢破れて、という内容である。実際、アルバートハモンドは売れない頃、物乞いをして暮らしていたことがあったらしい。


 終わりのほうが切ない。


 故郷に帰ったら(同郷の知人に言っているのだろう)、僕は今、いろんな仕事のオファーがあってどれにしようか迷っているところだと伝えてほしい。
 僕がどんなふうにしていたか、本当のことは伝えないでほしい。


 孤独で食う物に困っていても、昔の夢にまだ未練があり、見栄や意地のようなものもあって、宙ぶらりんのままカリフォルニアで生きているわけである。


 平易な言葉づかいで、特別なことを言っているわけでもない。
 甘い夢と、挫折してどうにもならない状態を、カリフォルニアは明るいというイメージと絡めて、歌っている。
 3分程度の曲だけれども、映画を見ているようでもある。


 前にも何度か引用したけれども、ニック・ホーンビィの「ソングブック」(森田義信訳、新潮文庫ISBN:4102202153。この本はポップス好きの人にもっと読まれてもいいと思う)の中の一節から。


ソングライティングが詩とはまったくちがったアートであることをぼくらは忘れがちだ。ボブ・ディランである必要はない。セリーヌ・ディオンに曲を提供するようなどこかの誰かさんである必要もない(言いかえれば、「夢」だとか「ヒーロー」だとか「生きぬく」だとか「心のなかで」なんていう言葉やフレーズを使わなくたってかまわないってことだ)。


(「スモーク」より)


 あるいは、こんなの。


コード(稲本註:和音――だが、たぶん、ホーンビィが言いたいのは、ギターでジャーンと鳴らすイメージ)とは最もシンプルな基本要素であり、美しく、完璧で、神秘性にあふれている。そしてそんなコードを、文字もろくに読めず、教育もなく、文化程度も低く、人の気持ちを思いやることもできないブタ野郎がふたつならべてくっつけると、そこには、すばらしくて力強い何かが生まれる可能性が広がっていく。(中略)ぼくは基本的に、複雑で知的なものほど音楽としては上等だとする意見には絶対反対の立場をとる。


(「キャラバン」より)


 アルバートハモンドが「文字もろくに読めず、教育もなく、文化程度も低く、人の気持ちを思いやることもできないブタ野郎」かどうかは知らないけれども、「カリフォルニアの青い空」は「複雑で知的なものほど音楽としては上等」ではないことを示していると思う。


 少なくとも、格差がどうのという話をするために、わざわざ「ルサンチマン(負け組の鬱屈、みたいなことかな)」なんていう大仰な言葉を得意気に振り回す連中よりは、よほど上等だ。


 職を失ったり、自分の甘い見通しから挫折や幻滅、切羽詰まった心理を味わったことのある人には、大なり小なり共感できる歌なのではなかろうか。


 和やかなメロディーだし、ハローワークでBGMに使ったらどうなるのだろう。
 歌詞に逆上する人が出てくるかもしれない。そういう人には英訳がらみの仕事を紹介するといいと思う。

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「今日の嘘八百」


嘘五百五十三 今、「裏日本の暗い空(It Never Clears In Ura-Nihon)」という演歌を書いております。