テレビの中のテレビ

 前にも書いた覚えがあるのだが(このフレーズ、近頃、よく使うな……)、ご勘弁いただきたい。


 テレビのテレビCMというのが、どうも納得いかない。


 ややこしい書き方で申し訳ない。半分はわざとだ。


 テレビ・モニターを宣伝するCMに納得いかないのである。


 しばしば高画質で色鮮やか、を謳い、テレビに派手な色の蝶々や、紅葉や渓流が映っているところを見せるわけだが、その「色鮮やかさ」というのは、今、自分が見ているテレビ・モニターに映っている色鮮やかさだろう。


 ややこしいな。自分で書いていても、ヘタクソな説明だと思う。


 ンー、こういうことだ。あなたの目の前に本物の、物理的な存在のテレビがある。スイッチを入れると、CMが映る。ここまではよござんすね。


 それが何のCMかというと、新しいテレビ・モニターのCMだ。あなたのテレビに、新製品のテレビ・モニターが映っている。そのCMの中のテレビ・モニターには色鮮やかな蝶々が映っている。それを、あなたは目の前の本物のテレビを通して見ている。


 ということは、今、あなたの目の前の本物のテレビには、きちんと蝶々が色鮮やかに映っているということだ。であれば、今のテレビで、少なくとも色鮮やかさは十分ではないか。


 言いたいこと、わかるかなあ。この説明、大学入試の問題にでもしたらどうだろう。書いている人間の国語力がよくわかると思う。
 わたしは合格する自信がない。


 閑話休題(それはさておき、と読むとイカすのですよ、受験生の皆さん。でも、手堅く行くなら、かんわきゅうだい、だ)。


 メーカー、あるいはどんと広く、今の世の中というのは、新商品、人の欲や不安感を刺激する進歩がないとうまく回っていかないのだろう。それは、あたしだってオトナだからわかる。


 一方で、わたしはいささかシャニカマ(斜に構えている人)でもあって、物事の進歩ということに、懐疑的なところがある。
 電機メーカーや経済成長の都合を無視すれば、テレビの色なんて、今のもので十分ではないか、と思う。


 新しいテレビを買えば、しばらくはその色鮮やかさが楽しいかもしれない。


 しかし、悲しいことに、人間、そんなことにはすぐ慣れてしまうのだ。色鮮やかであることが当たり前になってしまう。


 それに、世の大半の人がテレビで見たいものは、色鮮やかな蝶々が舞う様子ではない。たぶん、憎体な親方の表情や遺族の愁嘆場なのだ。

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「今日の嘘八百」


嘘五百五十四 というわけで、わたしの家のテレビは今でも白黒である。時々、「てなもんや三度笠」が映る。