数値に縛られる

 現代社会はストレスと無縁でいられません、なんていう類の言い回しをよく聞く。まあ、確かに、いろいろとストレスのたまることは多い。


 昔はどうだったかというと、わたしは昔の人でないからわからない。だいたい、昔ったっていつのことなのだ。


 人間関係のストレス、なんていうのは、いつの時代にもあるんだろう。


 一方で、割に歴史の浅いストレス(変な言い方だが)もありそうで、例えば、満員電車、なんていうのは戦後の、それも一部の地域のものに違いない。


 ちょっと漠然とした言い方だが、数値に縛られる、というのもストレスの現代的な原因になっているように思う。


 江戸時代の一日の時間感覚は大ざっぱで、朝といえば昼までが朝、昼といえば夕方までが昼、夕方といえば夜までが夕方だった、なんていう話もある。本当だかどうだかは知らない。


 もし本当なら、「明日の朝、参ります」なんていうと、今でいう午前中に行けばいいわけで、随分とのんびりとした時間感覚だったろう。
 もう少し細かく言うなら、「朝一番で参ります」だろうが、それにしたって、何時というほど細かくはない。


 だいたい、時間を細かく指定しようとしたって、分刻みの時計がない時分には、寺の鐘かお天道様の具合で時間を把握するくらいしか手だてがなく、どうしたって今よりはのんびりしたことになるだろう。


 細かく時間を指定しようとしても、せいぜい「では、明日、巳の刻に」程度しか言えなかったのではないか。しかも、「巳の刻」といったって午前九時から午前十一時頃の間を言ったらしい(追記:そういえば、「明け六つ」、「暮れ六つ」なんていう言い方もありますね。「丑三ツ時」の「三ツ」は「丑の刻」を四つに分けた三つ目だそうで、三十分単位の時間の把握はあったようだ)。


「先方の会社までは十分ほどかかるから、駅前に九時四十五分に集合」なんていう、細かな言い草はなかったんだろう。


 現代の我々、といっしょくたにするのも乱暴だが、まあ、今の日本の多くの人が時計の数値に縛られすぎているようにも思う。
 自ら縛られにいっている、自分で自分をストレスのたまるほうに向かわかせているところも、あるんじゃないか。


 などと書いているわたしも、割に時間には細かいほうで、先方との約束に十分も遅れるとなると、非常に焦ってしまう。
 まあ、これは几帳面というよりも、相手の気分を害するのが怖い、気が小さい、といったほうがいいのかもしれないが。


 数値に縛られるといえば、体重計もそうで、あれ、そんなに必要なものなのだろうか。


 身長170cmで体重100kgという人なら、まあ、ダイエットに取り組む必要があると思うが、せいぜい60kg、70kgくらいの人なら、500g単位で体重の増減に一喜一憂する必要もない気がする。別にボクシングやろうってわけではないんだから。


 太ったか痩せたか、だいたいのところは見ればわかる。
 むしろ、体重計の数値を気にしすぎるほうが、ストレスがたまってよくないようにも思うのだが、どうだろう。


 500g単位で体重を把握する。ああいうのは、一種の励みなのかな。裏返すと、落胆もあるんだろうが。


 わたしは体重計を持っていない。あまり必要を感じないからで、なくて困ったこともない。


 もっとも、腕時計は3分も狂うと、ああ、いかんいかん、と思うのだから、やはり、随分と数値に縛られているようだ。

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「今日の嘘八百」


嘘五百二十八 土佐礼子に延々と追いかけられる夢を見ました。