くっきり、ぼうっ

 温泉なんかに行って、朝方、小雨や霧で山がぼうっと見えている、なんていうのはなかなかいいものだ。


 くっきり、鮮明のよさというのもあるけれども、おしなべてそれがヨシ、とする捉え方にはどうも馴染めない。ウォーターフロント――幕張、お台場、みなとみらいなんかのつまらなさにも通じるようにも思う。


 最近は知らないが、NHKやメーカーがハイビジョンを宣伝するとき、やたらと紅葉だの、新緑だの、渓流だのの映像を見せていた時期があった。


 いやねえ、そりゃ確かにきれいだが、と思ったものだ。2、3分も見ていれば飽きてしまう。


 テレビが高画質の方向を目指すのはいまだに疑問で、あまりメリットがないように思う。
 自然の景色、なんていうのは、そんなにしょっちゅうテレビで楽しみたいものではない。


 スポーツは、まあ、高画質のほうがいい気もするが、スポーツを見るときのコーフンは画質の問題でもないように思う。


 その他の分野では、いいことばかりではない。


  ハイビジョン ケーシー高峰 アップなり


  針を手に ブラマヨ吉田の 頬眺む


 なんて、なかなかキビしいものがあるんじゃないか。


 アップで撮る、というのも善し悪しで、いい例が、フィギュアスケート選手の顔。あの濃いメーキャップをアップで映されると、げんなりする。


 村主章江が何かの番組で「あのメイクは観客席から見たとき、ちょうどよくなるようにしている」と語っていた。
 遠くから見てちょうどよくなる具合にしているのだから、カメラがアップで撮ると、濃すぎて、興ざめである。歌舞伎か京劇かと思うくらいだ。


 歌舞伎といえば、あの隈取り女形の化粧も、観客席から見てちょうどよくなるようにしているのだろう。
 女形のアップなんて、年のいった役者だと、武士の情けだ、撮影する側もちっとは考えたらどうか、と思うこともある。


 電灯が普及する以前の歌舞伎小屋は、公演は夕方までで、明かり取りの窓からの自然光に頼っていたという。後は蝋燭をサブで使う程度だったというから、今に比べると相当、暗かったのではないか。
 歌舞伎のあの濃い化粧も、当時の暗い芝居小屋に合わせたものだったのかもしれない(これはあくまでわたしの思いつき。調べたわけではありません)。


 フィギュアスケートにしろ、テレビ中継を前提にした歌舞伎にしろ、観客、テレビのアップ、さらにはハイビジョン、と、いくつもの見え方を想定しなければならないから、選手も役者も大変である。


 画質の数値を上げることを目指すのは、開発側としては目標が明確でやりやすいのだろうが、物事の楽しみというのはまた別のところにあるように思う。
 高画質というのは、下手すると、「暴き立てる」ことになりかねない。


 ま、パソコンのモニターの解像度が上がるのはいいことだと思うけれども。
 文字を読みやすくなり、疲れにくくなるからだ。あくまで機能的な理由であって、情緒的な理由は別にない。


 テレビも、今以上に文字を扱えるように、というのなら、高画質化する意味はあると思う(今の解像度では確かに文字は厳しい)。しかし、それ以外の高画質化のメリットが、少なくともわたしにはわからない。


 メーキャップがわかりやすい例だけれども、物事には、あんまりくっきり見せないほうがいいものも多いと思うのだが。
 暗い照明の下では美人に見えたのに、外に出たら、そんなはずでは、なーんてこともある。

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「今日の嘘八百」


嘘四百五十八 死ぬまで生きていこうと決意しました。