差別用語の問題というのは、なかなかややこしくも奥深いハナシで、例えば、「メガネ君」という言葉があったとする。
「黙れ、このメガネ君!」、「けっ、メガネ君のくせに」などという言い方がはびこれば、だんだん「メガネ君」は差別用語の方向へとずりずりズっていくのである。
でもって、テレビ番組や出版物で「メガネ君」という表現が使われて、わたしが「メガネ君は差別的表現だ!」と抗議する。
これを激しく繰り返すと、「メガネ君」という表現はやがてマスコミでは「ないこと」にされ、日本語変換ソフトからも消えてしまうのである。
騒ぎが変なふうにねじまがって過熱すると、ドラえもんののび太がメガネを外したり、ヤクルトの古田監督が球団側からコンタクトに変えるよう、要請されたりもするかもしれない。
しかし、「メガネ君」というのは、一方でなかなか魅力的な言い回しだ。
だから、私的な文章や、ブログのようなメディアでは、「メ○ネ君」の類のコソクな手段で生き残り、いっそう、差別用語的ニュアンスを強めていく。
ああ、メガネ君。キミは結構、いいやつだったのに。泥沼にはまっちゃったね。でも、ボクは自分が可愛いから、キミを命懸けで助けたりはしないよ。
――というのは、まあ、架空のハナシなのだが、これに類することは呆れるほど、たくさん起きているようである。
言うまでもないことだが(と言ったからには、もちろん、言ってしまうわけだが)、差別用語というのは、たいていの場合、その言葉の存在自体が悪いのではなく、使い方が悪い。
包丁で怪我をするのは、包丁の存在自体が悪いわけではなく、包丁の使い方が下手なのと似ている。
しかし、包丁で怪我すると痛いし、ハタで見ている人は気の毒に感じるものだから、中には「包丁を禁止したらどうか」と言い出す人が出てくる――とまあ、そんなような話だろう。
料理人のミナサン、どうしましょうかねえ。