何が言葉を隠すのか

 昨日の続きだが、といっても何を書いたかあまり覚えていないのだが(本当である。1日経つと忘れてしまう)、言葉というのは、どういう流れで、差別用語や、放送などで注意を要する表現と化すのか。


 ひとつには、侮蔑的に使い続けているうちに、何かこう、ヤマシサもあり、「こういう言葉遣いはいかんのではないか」と、言葉を差別用語に押しやる、というパターンがありそうだ。


 例えば、「土人」というのがそうだろう。元々は、その土地に住む人、土着の人という意味で、原住民とか先住民と同じような意味合いで使われたらしい。
 北海道では、開拓期に、千代に八千代に方面の下に組み込まれていなかった人々を、土人と呼んだと聞いたことがある。


 調べたわけではなく、当て推量なのだが、土人という言葉が侮蔑的な印象を強めたのは、日本が南方に進出してからか、あるいは映画などで南洋に住む人々についての想像上のイメージができあがってからではないか。
 昔のターザン映画に出てくる原住民のテキトーな印象。ああいうのが、「土人」に軽侮する感覚を染み込ませたのだと思う。知らんけど。


 でもって、その手の、人をいっしょくたにして見下すような見方には、ヤマシサがつきまとう。アア、ヤマシイ、ヤマシイ、コウイウコトデハイケマセン、と、土人差別用語となった。のではないか。


 しかし、「土人」という言葉自体は公で使われる機会が減ったけれども、土人のイメージや軽侮する感覚というのは人々の間で今でも残っている。そっちのほうがよほど失礼である。土人の人々に対して。


 あるいは、もちろん、言われた本人の精神的苦痛が理由で差別用語になる、というパターンもある。


 しかし、これがなかなかややこしい。実は本人の精神的苦痛なんぞではなく、まわりのお節介が勝手にコトを進めてしまう、という場合もある。そうして、かえって、本人に苦痛を味わわせる。


 いささか見当はずれの正義感に燃える人というのが時々いて、言われた本人は大して気にしてないのに、代理を勝手に買って出た人が「そんな言葉で呼ぶな!」と怒り出すことがある。


 例えば、「あれはロクなやつじゃない。まるでイナモトだ」という侮蔑的な言い方が広まったとする。
 事実、わたしはイナモトだし、ロクなやつじゃないからアキラメて受け止めているのだが、正義感に燃える人が「イナモトなんぞという言い方をするな! 本人の気持ちになってみろ!」と親切に文句をつけてくれる。そうして、「イナモト」を差別用語にしてくれる。


 すみませんねえ、イナモトで。


 しかし、そういう正義感に燃える人が、ただ正義感だけで差別を訴えているかというと、必ずしもそうではない。


 本当はイナモトを見たくないのである。あるいは、自分の中にあるイナモトのイヤなイメージから目をそむけたいのである。あるいは、正義感に燃えている自分に酔いたいのである。そんなところも、たぶんあるだろう、と思うのである。


 ああ、イナモトは差別用語になってしまった。これから、イ○モトなどと書かれるのだろうか。
 あるいは、性根の不自由な方、やる気の不自由な方、手先の不自由な方、頭の不自由な方、顔の不自由な方、ルックスの不自由な方、思いやりの不自由な方、ファッションセンスの不自由な方、生活態度の不自由な方、生きる基本的姿勢の不自由な方などと呼ばれるのか。


 ま、どれも事実なんだけどね。

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「今日の嘘八百」


嘘五百七十二 今、「ビチクロサンボボ」という物語を書いてます。