差別用語で興味深いのは、ある言葉を差別的だと指摘すると、指摘している人達の差別意識がしばしば表れてしまうところだ。
先の「メガネ君」の例で言うと、抗議するわたしに、メガネに対するコンプレックスや、メガネ君であることへの(被)差別意識があるわけだ。
あるいは、例えば、わたしが「やーい、イナモトヨシノリぃ!」と馬鹿にされたとする。
でもって、片肌脱いだ人物が横から出てきて、「イナモトヨシノリとは気の毒ではないか。そんな言葉を使うな!」と抗議してくれた。
その心遣いには感謝するが、一方でわたしは何だか複雑な心境になるだろう。ゴメンな、イナモトヨシノリで。
かつてのマスコミでは、「朝鮮」を注意を要する表現としていたという。考えてみれば随分失礼な話である。今でも日本社会に隠微に存在する差別意識が表れた例だろう。
差別用語というのは、たいてい、マスコミが抗議を受けたり、あるいは抗議を受けそうだと予防線を張ったりして、自主規制するらしい。
そのココロは何かというと、「面倒くさい」に尽きるだろう。トラブルがヤなのである。
わたしもさっきからこの文章を書きながら、差別用語(とされるもの)を使わないよう、注意している。
トラブルが「面倒くさい」からである。
しかし、あまり過敏になりすぎるのもどうか、と一方で思うのである。
最近、知ったのだが、「坊主」というのも、マスコミの一部で注意を要する表現になっているのだそうだ。「坊主頭」がNGになったケースもあるらしく、困りましたね、瀬戸内寂聴さん。
いや、でもね、「この、クソ坊主!」という言い方をしたいときもあるわけですよ。
きれいごとや、中立的なことばかりでは、世の中、つまらない。感情のひだひだ、面白さというものを味わえなくなってしまう。
それに、1つの言葉を「ないこと」にしても、暗いヨロコビが人々の間にある限り、別の言葉が取って代わるだろう。「この、クソ僧侶!」とか。
デビ夫人の露出が減っても、細木数子がちゃんとカバーする。そんなふうに、世の中、できているのである。
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「今日の嘘八百」
嘘三百三十六 ここに書く素晴らしい嘘を夢の中で思いついたのですが、忘れてしまいました。