若者を中心とした敬語の乱れが叫ばれる(「敬語の乱れだあ!」とわめいているやつがいるのだろうか)今日この頃だが、わたしの記憶では、ずーっと前から、若者を中心とした敬語の乱れが叫ばれている気もするのである。
もしそうなら、以前、敬語の乱れを叫ばれていた若者が、今では若者ではなくなって敬語の乱れを叫んでいるのかもしれず、まあ、アレだ、坂道でブレーキの壊れた自転車。叫びっぱなし、というわけだ。
敬語の乱れが近頃のことばかりなのかというと、さて、どうなのだろう。
例えば、「申す」という言葉がある。もともと、謙譲語だろう。
謙譲語というのは、へりくだって使う言葉だ。
へるわ、下るわ、靴をなめるわだから、相手を高く、こっちは見上げる形になる。「へへ、どうも。相変わらずのご繁昌で」と揉み手の卑屈な態度に出るわけだ。
今でも、例えば、「申し上げる」というふうに、へりくだって使う場合がある。
古語辞典を見ると、謙譲語としての説明がほとんどだ。わたしの持っている旺文社の古語辞典では、謙譲語としての説明が4項目。丁寧語としての説明が1項目である。
一方で、「申込用紙」とか、「申し出てください」という言い方もある。
これ、謙譲語と捉えると、(相手の身分が下ということになるから)「ああ、こらこら、ここに書くのだ。馬鹿者っ、そこではない。ここに書け。わからんのか、この愚民どもめが」という、明治時代の役人みたいなことになってしまう。
しかし、今、そんな心持ちで「申込用紙」とか、「申し出てください」と言う人はいないだろう(役所方面の本心は知らんけど)。
「言う」とか、「届ける」、「請う」を丁寧にいう言い方が、「申込み」とか、「申し出る」だ。
この「申す」という言葉、元々は「言う」、「請う」、「〜する」の謙譲語だったのだが、丁寧語に転用されたのではないか。
転用、というと、何やら澄ましているけれど、その実は誤用、「なんか、敬語っぽい言い方なんよねー」という感覚で、相手の本来は丁寧に扱うべき行動にも使うようになったんじゃないか。
それが流れ流れて、今では「申込用紙」、「申し出てください」というふうに違和感なく使われている――というのが、わたしが「申す」に向けているギワクのマナザシ。
昔の人も、敬語を誤用することがあって、それが広まった。誤用も誤用され続ければ誤用でなくなる。なんてこともあるんじゃないかもしれないこともあったりするのかなあ、という、ま、ゲスの勘ぐりってやつですか。へへ。
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「今日の嘘八百」
嘘二百十七 真っ赤な嘘。