どういうわけか絵づく時期というのがあって、ここ2、3日がそうだ。
えづく、と言っても、ゲロを吐くわけではない。
妙に絵を描くようになることだ。
ひさびさに「名画の部屋」を更新した。今回のお題は、ロダン「考える人」である。
「考える人」は彫刻だから、本当は「名彫刻の部屋」としなければならないのだが、さすがに彫刻の模造はできない。
写真を見ながら模写することにした。
例によって、マウスでちびちびと模写していく。カーソルが勝手な方向へ動いて、思うにまかせぬのだが、その不自由さがまた面白い。
ああーん、だめーん、そっちじゃないのう、と身悶えしながら、描いていく。まさに、ひとりヨガリだ。
写真(あるいは原画)をそのまま加工せず、模写するのは、著作権だの、版権だののせいもある。
まあ、ロダンの著作権なんてとうの昔に切れているだろうけど、「ケンリのシンガイ」とやらいうのはややこしいし、よくわからない。模写なら別に文句はなかろう、というわけだ。
それから、写真をそのまま拝借して合成するのでは、あまりに安易だという理由もある。つまらないし、修業時代も含めて大変な労力を費やしてきた作者に失礼だと思う。
しかし、一番の理由は、模写するのが楽しいからだ。何物かが(たとえ稚拙であれ)自分の目の前でできあがっていく感覚は、文章を書くときにはない。
まあ、文章だってできあがっていくものではあるけれども、わたしの場合はいつもデマカセを書き飛ばしているだけなので、そういう感覚に乏しい。
模写してみて、初めてわかること、というのもある。
もちろん、ロダンの深い彫刻的思考なんて、マウスで線を書いたくらいでわかるわけがない。それでも発見はあった。
まず、ロダンはめちゃくちゃ造形がうまい。
当たり前だ。当たり前だが、写真を細かに見ながら色を塗っていくと、体にしみこむようにして、そのことがわかる。
それから、ロダンは写実的な作家だと思っていたけれども、どうやらそうとも限らないようだ。
「考える人」は男性で、その体つきも非常に男性的だ。マッチョまでは行かないが、筋肉質の精悍な体つきをしている。
しかし、その「男性的」というのがくせ者で、おそらくこんな肉体を持った男性は現実にはいないだろう。
人間の筋肉はやわらかく、しなやかだ。しかし、「考える人」の肉づきはゴツゴツとして、硬質である。川の流れの中で磨かれた石の集まりみたいだ。
おそらく、ロダンは細かな肉づきをあえて硬質にすることで、男性の「男性性」とでもいうものを強調しているのだと思う。「考える人」は、一見、写実的・観察的に見えながら、実は細かな誇張の集まりであるようだ。
ともあれ、模写は描き出すまでは億劫だが、一度始めると、のめり込む。
真似をしていると、作者の思考の表面のほんのはじっこくらいでも感じ取れるからだと思う。
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「今日の嘘八百」
嘘九十七 エイプリル・フールの制度を作ったのは、ジョージ・ワシントンである。