絵と厚み、深み

 昨日は伊藤若沖の生誕296年(かなんかそのあたり)で、Googleのトップのイラストにあしらわれて(たぶん、日本のみ)、一部で話題になったようだ。
 若沖は、時折注目を集めては廃れる画家らしく、しかもそれは現代に限ったことではないようで、何の本だったか忘れたが、若冲に感動した人の話に対して漱石が「またあの鶏かいな」ヤレヤレと思ったというようなことを書いていたと思う。
 おれも初めて若冲を見たときは驚いた。コーフンした。面白いと思った。しかし、割とすぐに飽きた。その驚く感じと飽きる感じは、長岡秀星のイラストを見たときに似ていた。中学生の頃、アース・ウィンド&ファイアのLPジャケットのイラストを見て、驚いた。コーフンした。「こんな絵があるのか!」とまあ、何せうぶな頃であるからして、そう思った(面目ない)。しかし、そのうちにどうでもよくなってしまった。

→ The art of Shusei Nagaoka

 おれはそんなに熱心に絵を見てまわっているわけではないけれども、安土〜江戸くらいの名画とされるものを見ていくと、若冲はいかにも厚みと深みに欠ける。欠けるというより、最初からない。厚みってなんだ、深みってなんだ、と問われると困るけれども、過去からの流れが絵に影響する部分と、絵の視覚的な部分から予感させる目に見えない部分とでもいうか……。何だかわかんないですね、これでは。あるいは、ルネ・マグリットの着想の奇抜さと絵の平板さにも似ている。
 それに、これはもう好みと言ってしまうとそれまでなんだけれども、若冲の絵は稠密で筆がしつこすぎて、見ていて息苦しくなる。北斎先生くらい、稠密さに画家としての気迫や執念がこもっていれば話はまた別なのだけれども。
 若冲の話を書くと、いつも悪口になってしまう。まあ、最初から悪口を書きたかったのだ。申し訳ない、申し訳ない。