武士道精神が流行る理由

 yagianが、藤原正彦の「国家の品格」を好む人達と、アメリカでジョージ・W・ブッシュを支持している人達には共通点が多いのではないか、と書いている(id:yagian:20060204)。


 ただし、


異なっているところがあるとすれば、ジョージ・W・ブッシュの支持者は、自分たちの伝統的価値観にしっかりとコミットしているようだが、「国家の品格」を好む人たちは日本の伝統的価値観にコミットしているように見えないところだろうか。


 だそうだ。


 わたしは「国家の品格」を読んでいないし、アメリカには行ったことがない。ブッシュ支持者が多いという中西部のことは映画と何本かの小説くらいでしか知らない。


 なので、あくまでyagianの引用した文と、彼の文章を読んでの感想だけど、なるほど、彼の言う通りかもしれない、と思う。


 で、なぜ武士道精神が流行るのかについて、わたしの、スルドくも、さっぱり役に立ったことのない霊感でひねくり出してみた。
 霊感であるからして、これこれにこう書いてあるとか、そういう証拠立てはできない。わたしを信じて、ついてきなさい。


 まず、


・どうも世の中、道徳、倫理が欠如して見える


 本当にそうなのかどうかは保留。昔、異常事件や、他人に対するひどい行い、あるいは「みっともないこと」が少なかったかどうかわからないから。


 次に、


・武士は凛として格好よさげだ


 格好よさは大事だ。これは本当にそう。


・「ブシドー」はニッポン・オリジナルである


 同じ土地に生まれた誰か彼かがそういう流儀を持っていた。かつて、この土地には、そんなリッパなものがあった、というのだ。


 次にアメリカと比較して、


・日本では、キリスト教の教会が倫理、説諭の場としてはあまり機能していない。あるいは身近に通っている人の話を聞くことが、そんなにはない


 キリスト教徒が少ないのだから当然だ。


・かといって、お寺は日常的に通う場ではない
・神社はそのうえパンチに欠ける。


 まあ、神社に行くと、ある「気分」にはなる。しかし、倫理について強く、直接的に作用する場ではない。
 教会は自分の行動範囲のものではないし、公教育はたよりない。そんなこんなで司馬遼太郎の本が倫理、説諭の道具になっているのではないか、とも思う。


 それから、次の理由が実は大きいのではないかと思うのだが、


・過去は優しい。少なくとも未来のように不安感を掻き立てない


 でもって、最大の理由はこれだ。たぶん。


・何だか会社が忙しい


 会社から離れたものに接する機会があまりない、あるいは自ら接しようとするものが限られているということではないか。
 そして、その接するものが「武士道」に関する、自分の好みのものだったりするのだ。知らんけど。


 しかし、いきなり「惻隠の情」とか言われても、困るのだ。
 倫理というのは、かすかであれ、生活の底にある、もっと生な言葉、あるいは生の行動で語れなければ。


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「今日の嘘八百」


嘘四十八 今日は嘘はやめておく。