さて、ここに自由律俳句というものがある。
俳句には、五七五も、季語もいらん、としてしまったものだ。
もっとも、詳しいことは知らない。
いくつかの句と、代表的な俳人、種田山頭火と尾崎放哉の名前を知っている程度である。
初めて知った句は、山頭火の
音は時雨か
だったと思う。あまりのシンプルさに驚いた。
で、その後、尾崎放哉の句を知って、もっと驚いた。
咳をしても一人
参りました、と、その場で土下座した。
何も論評できない。というか、論評すること自体が空しく感じられる。
放哉にはもっと凄いのがある。
すばらしい乳房だ蚊が居る
これはかなりのインパクトだ。劇的、といっていいのかどうか、よくわからないが、感動的ではある。
一方で、わかったような、わからないような、でも何だか深そうなものもある。
墓のうらに廻る
先にわたしが作った五七五と、これら自由律俳句とどちらが俳句らしいかというと、実はどっちも俳句に見える。
もちろん、たまたまサッカーボールを蹴ってみた人間と、何十年もサッカーをしてきたスター選手を比べるつもりはない。
いったい、俳句を俳句たらしめているのは何か? というのが、わたしの興味だ。
前者(わたしの作ったもの)は簡単で、五七五という音の数だ。
じゃあ、後者、自由律俳句は何かというと、よくわからない。
作った本人が俳句だと思った、あるいは読む人が俳句だと思って読む、実はそれだけなんじゃないか、とも思う。
その証拠に、次の言葉も、尾崎放哉か誰かが作った自由律俳句だと自分に言い聞かせると、あな不思議、俳句に見えてくるのである。
重い腰を上げる
深い。ような気がする。
他にもいろいろある。どうぞ、今日はゆっくりと、自由律俳句の世界に遊んでください。
らっきょう食うて口を拭う
角を矯めて牛を殺す
割った茶碗を接いでみる
死んだ子の年を数える
吐いた唾を呑む
猿が木から落ちた
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「今日の嘘八百」
嘘三十三 これは三十四番目の嘘だ。