メンバーは、外山 明(ドラム)、水谷浩章(ベース)、川嶋哲郎(テナーサックス、ソプラノサックス、フルート)。それに、ゲストとして、アカペラグループのXUXU(シュシュ。ただし、共演はアンコールのみ)。
これが、スペクタクルなサッカーの試合を見るようで、実に面白かった。
ポジションで言うなら、水谷浩章がボランチかリベロ。骨太なプレーで全体を締め、危険の目を摘むが(ジャズにおける危険って、何だ?)、時々、あっと驚く技を繰り出して、攻撃に参加する。
外山 明は暴れ者だ。モダンジャズのオーソドックスなドラミングはあまりしない。たまにしても、クセが強い。
奔放にフィールドを駆け回る攻撃的ミッドフィルダー。
奔放過ぎて、たまにタイム感が微妙にズレて感じられるときもあった。天才肌の選手が予想外の動きをし過ぎて、パスミスを誘発するようなものか。
その代わり、バシッと合ったときには、ちょっと言葉では表現できない、圧倒的な音空間が生まれる。いやあ、凄いスウィング感でした。
川嶋哲郎は、フロントマンでもあるし、やはり、フォワードだろう。暴れるときは暴れるのだが、案外、きちんと計算を立てているようにも感じた。チャンスには、キチッと得点を決める、というところだろうか。
計算できるフォワードというのは、どこのチームもほしいだろう。引っ張りだこなのも、よくわかる。
このチームでの、山下洋輔のポジションは何だろう。キャリア的にも、貫禄という点でも、司令塔ではあるのだろうけれども、「おれが、おれが、おれが」というふうではなく、残りの3人を自由に遊ばせているようにも感じた。コーチ兼任選手といったところか。余裕というか、懐の深さのようなものを感じた。
システマチックなチームではなくて、選手のセンスに重きを置くようなチーム。ブラジル的、と言っていいのだろうか。大まかな決めごとはあるけれども、後はお互いの動きを見ながら、自由にやる。
今の山下洋輔は、ニューヨーク・トリオと4Gユニットという固定のグループも持っているけれども、ライブごとにいろんなメンバーを集めることのほうが多いようだ。
少し前には、ジャズで忠臣蔵をやる「ジャズマン忠臣蔵」で話題になった。いろんな状況、共演者で“遊ぶ”ことを楽しんでいるのだろう。
“Play”ということについて考える。
この言葉は、まず第一に「遊ぶ」と和訳される。
しかし、“Play”の意味は広い。
野球をすることも、サッカーをすることも、“Play”だ。演奏することも、芝居などで演技することも、“Play”。オーディオやビデオの再生ボタンも“Play”。
英語を母語とする人にとって、“Play”という言葉がどういうニュアンスで響くのかは知らない。しかし、たぶん――よく言われることなのだろうけれども――“楽しむ”という感覚は含まれているだろう。
もちろん、高い次元の“Play”をするには、つまらない基礎訓練の反復とか、キツい練習とか、乗り越えなければいけないものも多い。
だが、その先には、常人には味わえない楽しみがあるらしい。
山下洋輔は今、いろんな形の“Play”を楽しんでいるのだろうと感じた。
そして、たぶん、それは“遊ぶ”ことなのだ、やっぱり。高い次元での。
スポーツをする人が“Player”と呼ばれる文化と、“選手=選ばれた人”と呼ばれる文化の違い、というものを思う。
“選手”という言葉には、義務や責任、大げさに言えば、富国強兵のにおいが残っていて、私自身は、どんなもんかね、と感じている。円谷幸吉は自殺しちゃったわけですよ、“選手”としていろんなものを背負わされて。あるいは、“選手”として自分で背負いすぎて。
いろんなことを楽しめるといいですね。高次元で。
音楽でも、スポーツでも、あるいは仕事でも、“Play”できたら、幸せだと思うのです。