今朝、5時頃に目が覚めて――と言っても、半分起きたような、ボワーンとした状態だったが、「血液型性格判断はなぜ受けるのか」について考えた。いや、考えたというより、意識がそこらへんをさまよった。
ベッドの中で芋虫と化していたから、ほとんどの思いつきはドロドロと蒲団から床へと垂れ落ちていったが、いくらかは残滓がある。思い出せる範囲で書いてみようと思う。
まず、「血液型性格判断が当たっているから」という仮説があるだろうけど、ハテ、どうだろうか。
血液型性格判断が、もし仮に(あくまで、仮に、です。私は非常に疑わしく思っているので)正しいとしても、「当たっている」だけでは足りないと思う。
たとえば、(a+b)2=a2+2ab+b2は当たっているけれど、中学校の数学教師以外には、血液型性格判断ほど受けていないようだ。「代数型性格判断〜因数分解で相性がわかる!」なんていう本が出ても、一部の好事家と中学校の数学教師以外には売れないと思う。
「んなわきゃない」とか「半信半疑」という前提が心のどこかにあって、でも(あるいはそのせいで)、結構当たっているように「思える」。たぶん、そこの部分がポイントなんじゃないか。
つまり、当たっているかどうか、正しいかどうかは本当はあんまり関係がなくて、当たっていると「思える」ところが重要、と、そんなふうに思うのだ。
もうひとつ思いついたのは、というか、以前にも書いた淡い記憶があるのだが、「単純化できる」。これも、ポイントだと思う。
人の性格というものは複雑怪奇、行動も時によってコロコロ変わる。
なんたって、今日、チャーハンを食ったかと思ったら、次の日にはラーメン、その次の日にはタンメン+餃子を食うというテイタラクなのだ。これでは、ラーメン屋方面にエサ場があるヒト、というだけか。
ともあれ、まあ、人の性格というのはそう簡単には捉えられない。そうじゃなかったら、夫婦関係も、恋人関係も、友達関係も、さほど苦労せずに済むと思うのだ。心理療法士だって苦労しないだろう。
そういう多種多様・変幻自在・百鬼夜行な面を持つ人について、「A型はキマジメでコツコツ」と思いっきり単純に言われれば、「いえてるかも」と感じるんじゃないか。少なくとも、その人にそういう一面さえあれば。
だいたい、ほとんどの人に大なり小なりキマジメなところはあるし、コツコツやることだってある。同じくおおらかだったり、目標に向かって情熱的になったり、突拍子ないことを言い出したりするときも、ある。
たとえキマジメでコツコツなところが全くない相手であっても、血液型性格判断の好きな人の手にかかると「A型なのにねえ」などということになってしまう。まあ、ここまで来れば完全に定置網にかかってますね。
ああ、だんだんと「血液型性格判断はデタラメ」という書き方になってきた。まあ、私はほとんどそう思っているので、以後は「仮にデタラメだとしたら」という前提で書く。
つまり、単純化できればいいわけで、たとえば、
A型 ラーメンが好き
B型 カレーライスが好き
O型 ご飯が好き
AB型 蕎麦が好き
でも、何となく、当たっている気になるんじゃないか。
「誰々は毎日、ラーメン食っててさ」という話をすると、「ああ、アイツはA型だからね」などと納得するのだ。そういうことがつながれば、だんだん「常識」というものになっていく。
やっぱり、人というのはいろいろで、時と場合によってさらにいろいろになり、多様な人それぞれに多様な面があって、ややこしい。
そういう個々人の陰影がまた面白いのだけれども、あまりに複雑至極・妖怪変化・五里霧中なため、単純化できるとラクになれて、いいのかもしれない。
何年か前に流行った動物占いとか、あと、よく知らないけど、ドワドワとあるナントカ占いの類も、こうした単純化、パターン化という点では共通しているように思う。
あるいは、「○○人はこうだ」というあまりに大ざっぱな言い切りも(そんな単純なわきゃないでしょ、何万人、何億人とそれぞれ生きている個々人が)、そういう単純化、パターン化が相手についての認識をラクにしてくれるところから来ているんじゃないか。
単純化、パターン化さえできれば、さっきの「A型 ラーメンが好き」とは逆に、血液型のほうを他のものに変えてもいい。
やせていて直毛の人 キマジメでコツコツ
やせていて巻き毛の人 好き嫌いがはっきりしている
太っていて直毛の人 ノーテンキ
太っていて巻き毛の人 突拍子もない
でもなんでも、それらしく作ってしまえば、いいのだ(当たってそうに思えるところがまた、面白いじゃありませんか)。
ちなみに、この「ヤセデブ毛髪性格判断」は「占い」ではありません。きちんとしたデータに裏づけされた「科学的事実」です。