昨日に続いて、オヤジ・ギャグ問題について、である。
昔々、村上春樹がエッセイに(「村上朝日堂」だったか?)、ある程度年をとると、「そういうものだ」「それがどうした」が二大キーワードになってくる、みたいなことを書いていたようなおぼろげな記憶がぼうっと残っている曖昧な日本の私なのである。
いや、表現はたぶん違ったろうけど、「そういうものだ」、「それがどうした」という言葉は書いていた。
あくまで一般論だが、中年になるにしたがって、物事への耐性ができあがってくる。
オヤジ・ギャグにはそうした耐性が関わっているんじゃないか。別に受けなくともよい、それがどうした、というわけだ。
いや、もっといろんなバリエーションがあるかな。
最初は受けたい、と思って冗談を発して、まわりがシラケまくり、それがどうした、と開き直ることもあるだろう。
あるいは、シラケていることにすら気づかない場合もありそうだ。
ややポジティブな言い方をすれば、耐性。ネガティブな言い方をすれば、不感症である。
これはオジサンだけではない。オバサンにも言えることだ。
えー、繰り返しますが、あくまで一般論であります。後ろから刺さないでくださいね。痛いですから。
ある種の繊細さを失う、とも言える。
ただし、別種の繊細さが逆に芽生えてきて、若い頃は馬鹿にしていたような話にホロリと来たり、上等・下等はいろいろだろうが風情・風流を解するようになったり、人生の機微にぐぐっと来たりもする。涙もろくなる人も多い。
というわけで、年をとると単純に駄目になっていくわけではなくて、琴線の張られ方が変わっていくということだと思う。
別に、オヤジ・ギャグを肯定しているわけではない。オヤジ・ギャグの被害にあっている若い方々には深く同情する。
NPO法人「オヤジ・ギャグ110番」なんていうのをつくってみようかな。