また、落語の話で申し訳ない。
もう、明日から書き出しは、「エー、お運びいただきまして、御礼申し上げます」で行こうか。
落語ファンの文章を読んでいると、独特の言葉遣いがある。「間に合った」というのが、たとえばそうだ。
「私は文楽に間に合った」とか、「志ん生には間に合わなかったが、円生には間に合った」とか、そういうふうに使う。
「生で見ることができた」くらいの意味だ。上記の文章は、「私は文楽を生で見ることができた」、「志ん生を生で見ることはできなかったが、円生は生で見ることができた」というような意味である。
もっとも、「こぶ平に間に合った」というふうには言わない。それは「こぶ平を見た」、あるいは「こぶ平が出てきちゃった」でいい。
「間に合った」は、亡くなった名人を最晩年だけど生で見られたときに使う。
この言葉を使うとき、ちょっと自慢げなニュアンスが混じる。
考えてみれば変な言葉で、「あの大名人をギリギリだけど、おれは見られたんだ。ヘヘ、いいだろ」と、落語家の死を自慢話にしている。だいたい、「間に合った」というと、その落語家、まるで危篤だったみたいじゃないか。
まあ、「間に合った」と言ってもらえる落語家は幸せ、とも言える。
「志ん朝に間に合った」という言い方は、そのうち、されるようになるのだろうか。微妙なところだが、私はされないように思う。
名人だと思うけれども、亡くなったのが64歳。「間に合った」と言うには早すぎた死だからだ。
ちなみに、親父の志ん生の全盛期と言われているのは、65歳頃からだそうだ。