自意識過剰の国

 正月の羽田の航空機事故、ニュースを見ていると「全員脱出に海外からも称賛の声」といった類の記事や動画がよく出てくる。確かに、あの状況で全員脱出させたのは素晴らしいと思う。

 一方で、日本は海外からの見られ方をやたらと気にする国だなー、とも思う。

 もっとも、海外といったってコンゴ民共和国も含まなければ、アラブ首長国連邦も含まない。中国もめったに含まない。日本で海外といえば、アメリカかヨーロッパの大国になぜか限られている。

 もしアメリカで同様の事故が起きて全員脱出となったら、「全員脱出に海外からも称賛の声」なんて記事が書かれるだろうか。事故機の乗員なり乗客なりの対応を称賛し、場合によっては「おお、やはり偉大な我がアメリカ」となるだけではないか。アメリカに住んだことないので、知らんけど。

 日本には欧米から褒められるとうれしくなるというか、うれしくなりたいがために欧米からの評価を気にする人が多い。YouTubeなんかを見ていても「日本の◯◯を海外の人に体験させてみた(食べさせてみたとか、見せてみたとか)」という類の動画がたくさんあがっている。あるいは、「日本人は◯◯である」という決めつけのような動画もよく見かける。

 自分はどういう人間であるかとか、他人からどう見られているかとかをやたらと気にすることを自意識過剰と呼ぶ。鏡を見て自分の姿ににやついてばかりいるようなタイプだ。

 日本には日本人であることに自意識過剰な人が多いなー、と思う。そこまで気にしなくていいじゃん、と思うのだが、何かいろいろと歴史的・文化的背景や、見るもの聞くものを通じて受け取るプレッシャーがあるのだろう。

 褒められてうれしがってるばかりではなくて、自分に対する興味の半分くらいでも他国に対して持ってはどうかと思うのだが。

神社仏閣だらけのニッポン

 いきなりだが、日本には神社仏閣が15万8千箇所以上もあるんだそうだ。コンビニの数が5万6千店程度だそうだから、コンビニの3倍近くもある計算になる。

 そんなにあるかな、とも思うのだが、もしかするとおれがコンビニの多い東京に住んでいるからかもしれない。京都なんかはもちろん神社仏閣だらけだし、地方に行くと、大都市ほどコンビニが乱立していないから、まあ、それくらいあるかもな、とも思う。

 この間、住んでいる街を歩いていて、随分と医院が多いな、と気づいた。他のお店と比べて医院は表が地味だからそれほど普段は思わないが、注意して見ると、随分と多い。商店街なんかでは、医院、店、店、店、医院、店、店、医院なんていう並びもあって、そんなに需要があるんだろうか、とも思ったが、まあ、そこそこ儲かるくらいには患者が来るのだろう。

 日本の医院の数は18万くらいで、うち病院が8千、一般診療所(いわゆる町の開業医)が10万4千、歯科診療所が6万8千だそうだ。歯医者が多い。

 医院が18万に対して、神社仏閣が15万8千だから、神社仏閣はなかなか健闘(?)している。日本は神社仏閣だらけの国なのだ。

冤罪はなぜ起きるか

 冤罪にまつわる本を3冊読んだ。

 

 

 

「特捜検察の正体」「冤罪はこうして作られる」ともに、冤罪の原因は共通している。

 

1. 検察は予断に基づいてストーリーを組み立て、押し通す

「落とす」となったら、検察は強引に犯行のストーリーを組み立て、「証拠」(怪しいものも多い)を組み合わせる。客観的な正否を明らかにすることではなく、「有罪にする」ということが目的となってしまう。

 

2. 被疑者は勾留・取調べで肉体的・精神的に追い詰められ、自白してしまう

 検察の被疑者に対する取り調べは容赦ない。ほとんど拷問に近い。被疑者はしだいに肉体的にも精神的にも追い詰められ、苦しみから逃れたいばかりに検察の作った調書に署名してしまう。その心理は、おれのような心の弱い人間にはよくわかる。

 

3. 裁判官は検察の言うことを信じがちである

 同じ司法官僚だからか、裁判官は検察の調書や主張を頭から信じがちである。そこにある齟齬や根拠の薄弱さを見逃してしまう。

 

 日本の刑事裁判における有罪率は99.9%と言われる。もっとも、逮捕された者のうち、不起訴になるものが50%ほどあるから、正確には(逮捕された者のうちではなく)起訴された者のうち、99.9%(ないしは99.8%)が有罪になるということらしい。起訴する検察は確実に有罪にできる事件を選んで起訴しているわけだ。そして、裁判官は検察が言ってるのだから、と信じてしまう。

 その背景にあるのは、官僚の無謬性、つまり、自分たちは絶対に間違いを犯さないという信仰のようなものだ。無謬性といっても、間違いを犯さないよう慎重にことを運ぶというのではなく、自分たちは間違いを犯さない存在だから自分たちのやることは正しいと信じてしまうという、いささか倒錯した考え方である。

 官僚国家ニッポンの恐ろしさ、暗がりを感じる。

 一方で、警察が逮捕したというだけで犯人扱いするメディアやそれと裏表の関係にある大衆の見方にも問題がある。検察官を「ヒーロー」扱いする(昔そんなタイトルのテレビドラマがあったな)捉え方は怖い場所につながっている。

おれの前に立つな

 おれはイライラしぃで、特に自分の前に誰かが立ちふさがるとイラッとくる。

 道で、だらだら歩いているやつが前に来るとイラッとする。それが二人、三人と横並びで立ちふさがるとイライラッとする。

 コンビニのレジ前で並び、金を払うやつがカバンからのんびり財布を取り出してスローモーな動作で金をひとつひとつ出しているのを見ると、「さっさとせい、財布は先に出しとけ」と内心ひとりごつ。スマホで決済アプリをメニューから立ち上げてあれこれ操作しているのを見ると、「先に立ち上げとかんかい、何のためのキャッシュレスサービスだ」と思う。

 その割には自分が支払う順番になると、財布から小銭をうまくつかめず、アタフタしたりする(おれは指先がひどく不器用なのだ)。後ろに並んでいる人に申し訳ない心持ちになる。

 どうしてこうも前を邪魔されるのが嫌なのか、自分でもよくわからない。

 ゴルゴ13は後ろに人が立つのを嫌うが、おれは前にくるのを嫌う。おれがゴルゴなら撃ち殺しているところだ。

イチョウの物語

 イチョウを見に、自転車で神宮外苑に行ってきた。

 手前に写っているイチョウはまだ完全に黄葉していなくて、緑と黄色が混じっている状態だ。奥の方に進むと黄葉しきっている木もあった。全てが黄色くなるにはもう一二週間かかるか。イチョウは秋の木という印象だったが、温暖化のせいか、すっかり12月の木になってしまった。

 絵画館を前にしたこの通りはイチョウの名所で、大勢の人が訪れていた。写真の奥の方ではイチョウ見物のためにクルマをシャットダウンして歩行者天国になっており、自転車でも通れないので、あきらめてすごすご帰ってきた。

 この写真は白金高輪で撮った。白金高輪にはイチョウ並木が続く美しい通りがある。

 ご覧の通り、まだ緑色のイチョウと黄葉したイチョウが並んでいる。日照時間なり温度なりが違っているとは思えないから、黄葉に関する個体のDNAが違うのだろう。

 桜のソメイヨシノは挿木で増える、つまりクローンで増える。ソメイヨシノがいっせいに咲き誇るのはDNAが同じだからである。生殖で増えるイチョウはDNAが個体によって違うから黄葉時期がずれてくる。

 これまでも何度か書いてきたが、イチョウには物語がある。

 イチョウ中生代に世界中で繁栄した古い種だが、やがて衰退し、11世紀ごろには中国の一部で自生するだけとなってしまった。しかし、葉の形の面白さや黄葉の見事さから中国の中で移植されるようになった。日本に伝わったのは13世紀頃らしい。ヨーロッパには日本経由で17世紀末に伝わり、18世紀にはヨーロッパ各地に観葉目的で移植されるようになった。今では世界中で見られる。

 美しさで、いわば芸の力で盛り返したわけで、植物の盛衰というのは面白いものだと思う。人間にたとえるなら、滅亡に瀕した人類が一度は小集団を残すのみとなったが、再び力を得て世界に乗り出していったというふうで、SFみたいでもある。

クリスマスと多神教

 街ではそろそろクリスマスの飾り付けが始まっている。

 まだ1ヶ月も先なのに気の早いことだと思うが、夜の街にクリスマスの華やかなイメージが合っていて、「気分」を楽しみたいということなのだろう。多くの日本人にとってクリスマスはあくまで「気分」である。

 おれは以前からキリスト教徒でない人間がクリスマスを祝うことに疑問を持っていて、信じてもいないものを祝うのはむしろ失礼なんじゃないかと思っていた。

 しかし、この頃では日本人の多くは多神教徒であって、クリスマスもイエスなりキリストなりという神様のひとりを祝うイベントなのだと考えるようになった。正月には神社で神様に挨拶し、クリスマスにはイエスなりキリストなりを祝い(もっとも気分を味わいたいだけの人も多いだろうが)、葬式や法事では仏様にお経を読む。お地蔵様にはぺこりと頭を下げ、八幡様やお稲荷さんに願い事をし、結婚式はカッコいいので教会であげる。とまあ、そんなふうなのだ。

 日本は昔からアニミズムの国で、あらゆるところに神様がいると考えてきた。中国経由でインドから入ってきた如来や菩薩、四天王なんかも多くの神様のなかに組み込まれた。キリストもそのひとりなのだろう。

 日本人は無宗教だと言われるけれども、そうではないと思う。日本人の多くは多神教なのだ。ただ、神様それぞれについて深く考えることはしない人が多いのだろう。キリスト教の神様が「この世に神はわししかおらんのだ」と主張していたとしても、そんなことは気にかけない。いろいろいる神様のひとりくらいにしか考えていない。そのときその場で目の前にいる神様を信じる。そういう人が多いのだろうと思う。教義より神様それぞれのイメージやイベントの気分が大事なのだろう。

おれはメリークリスマスなんて言わないけどね。

針の穴から世界を覗く

 ネット上のニュースやFacebookを見ると、MLB大谷翔平の話題がよく出てくる。サッカーのプレミアリーグのニュースでは、ブライトンの三苫リヴァプールの遠藤がよく取り上げられる。

 大谷翔平がこれまでの日本人選手とは段違いの活躍を見せているのは間違いない。盛んに取り上げられるのは当然だろう。全盛期のイチローが辛うじていくらか近い位置にあったろうか。

 一方で、遠藤はリヴァプールのなかで、残念ながら二戦級の選手である。体を張った守備をしているが目を見張る活躍とはいえず、ファーストタッチやパスは危なっかしい。主戦級の選手がなんらかの事情で出られないときや、相手が弱くて選手を休ませたいときに出ているという感じである。正直、ニュースで取り上げるほどではないと思っている。

 日本人選手の活躍ばかりを取り上げるのはどうなのだろう、と思う。野球もサッカーもチームスポーツだし、素晴らしい選手は世界中にいるし、素晴らしいプレーを繰り広げているのに。

 日本人選手だけを注目して見るのは紙に開けた針の穴から世界を覗いているようなものだと思う。目の前の紙を取り除けば、そこには広い世界が広がっているのに。もったいない。

 もっとも、針の穴から覗く世界には独特の見え方もある。その狭い視界を一生懸命に観察するのも、それはそれで楽しみなのかもしれないが。