人の垣根

岡本綺堂随筆集」にこんな文章がある。明治四十年のものだそうだ。


 隅田川を上る汽船に、浅草の吾妻橋から十五、六の娘が乗ってくる。娘は、傍にいる三十二、三の婦人に戸の崎という土地はどこかと訊ねる。しかし、婦人はその土地を知らない。


「始めてお出なさるんじゃ困るでしょうねえ」と、婦人も気の毒そうな顔をした。それでも年の効で、少し声高に船中一同に対って、「あの、何人(どなた)か戸の崎という所を御存知でしょうか。」
「戸の崎、戸の崎」という声が隅から隅へと伝わったが、誰あって明白(あきらか)に答える者がない。あるいは南葛飾だといい、北葛飾なら東京ではない、埼玉県だという。議論区々(まちまち)で一定しない。結局上陸した上で土地の者に問うより他はないというのに帰着した。私も無論知らない一人であった。
「困りましたねえ」と婦人は嘆息する。「どうも有難うございました」と、娘は礼をいう。船中自ら白けて、霎時(しばらく)はお饒舌(しゃべり)も歇(や)んだ。船は橋場に着いたが、書生が一人上ったばかりで直に出た。


(「船中」より)


 出てくる船は汽船だが、見知らぬ同士でわいわい喋る様子は、まるで落語の「巌流島」のようだ。
 今、少なくとも東京近辺で、大勢が一緒になって見知らぬ者の心配をしてやる、なんてことはない(必ずしも親切心の問題だけではないだろう)。この頃には、東京にもまだそういう風が濃厚だったらしい。


 学校で習う歴史では、明治維新で時代は変わり、それ以前は江戸時代、それ以後は近代、ときっぱり切って考えがちだけれども、人々の生活、対人の感覚という点で、むしろ江戸と明治はつながっていたのかもしれない。


 じゃあ、どこで切れて今に至るかというと、関東大震災と空襲、それから戦後の復興ではないかと思う。


 震災と空襲で街は変わり、人も住む場所を変えた。攪拌され、飛び散った。
 そして、戦後の復興期に地方から人がわんさか集まり、定住するようになった。時代は違うが、わたしもわんさか集まり組のひとりである。


 地方からのわんさか集まり組が、以前から東京に住んでいた人々を駆逐した、という見方もできると思う。
 そうして、お互いの領分をなるべく侵さぬよう、人と人の間には高い垣根を設けるようになった。


 お互い、ラクなのだ、そのほうが。少なくとも短期的には。


 一方で、同じく空襲にあい、戦後の復興期に地方から人がわんさか集まったはずの大阪で、東京に比べれば、人と人の垣根が低いように見受けられるのはなぜだろうか。


 大阪は、古い文化(人と人との接し方の感覚)が流入してきた人々を飲み込んだように見える。


 もしそうなら、その違いは何のゆえなのか、ちょっと興味がわく。


岡本綺堂随筆集 (岩波文庫)

岡本綺堂随筆集 (岩波文庫)