昭和歌謡曲を聴く〜襟裳岬

 輪島裕介の「創られた『日本の心』神話〜「『演歌』をめぐる戦後大衆音楽史」を読んだのをきっかけに、昭和の歌謡曲をぽちぽち聴き直している。

創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書)

創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書)

 今日は森進一の「襟裳岬」について書いてみたい。
 おれは1966年生まれで、「襟裳岬」が流行ったのはガキの時分である(1974年)。
 何年か前にカラオケで「襟裳岬」を歌ってみて、歌詞の中に「コーヒーカップ」だの「くるくるかきまわして」だのという文句が出てくるので驚いた記憶がある。作曲はフォークの吉田拓郎だから考えてみれば不思議ではないのだが(作詞は岡本おさみ)、全体に当時のフォークっぽい若者の「やさしさ」気分や浅いお説教調子が歌詞に表れていて、違和感を覚えた。おれが覚えていた歌詞は「北の町ではもう悲しみを暖炉で燃やしているそうです」という出だしと、最後の「襟裳の春は何もない春です」だけだったのだ。
 ここで、まずは森進一の歌を聴いてみよう。

「北の町では〜」と「襟裳の春は〜」というサビの部分以外では、歌詞と歌い回しを無理矢理合わせているようなところがあちこちにある。
 次に、作曲の吉田拓郎が歌った「襟裳岬」を聴いてみよう

 森版に比べると、テンポが早く、軽い調子で、「襟裳の春は〜」というところは随分あっさりと歌っている。おそらく、おれと同世代の人(今四十代後半から五十くらいの人)の多くにとって違和感があるんじゃないか。拍子抜けする。
 そもそもこの歌は何について歌っているのだろうか。
 おれは今回あらためて聞き直してみるまで、襟裳岬の情景や人について歌っているのだと思い込んでいた。森版の「北の町では〜」と「襟裳の春は〜」という部分の歌の記憶が強烈に残っているからだ。
 しかし、あらためて歌詞を読んでみると、どうもこれは東京かどこか知らないが、「北の町」以外での話らしい。都会(なのだろう)において自分に閉じこもりがちな心を溶かして(あるいは人に対して縮こまってしまった記憶を燃やして)、もっと人間同士、楽に心を開いてつきあおうじゃないか、というようなメッセージなのだと思う(先に書いた「若者の『やさしさ』気分」をおれはそこから感じるのだと思う)。作詞者、作曲者にとって、北海道・襟裳の地はあくまで「暖炉で物を燃やす」という頭の中のイメージの土地でしかないのである。吉田拓郎は、「襟裳の春は〜」というフレーズにせいぜい「暖炉使ってる襟裳みたいにさ」くらいの意味しか持たせていないから、あっさりと歌っているのだろう。
 森進一の「襟裳岬」のレコードを初めて聞いたとき、吉田拓郎は「これはすげえ」とひっくり返ったという。

 思いもかけない素晴らしい出来に驚いたのではなく、逆に、そのややこしい節回しや「襟裳の春は〜」の大仰な歌いっぷりに、演歌独特のねじれ(北への執着というべきか)と、歌詞内容についての解釈の違い(勘違い?)を感じたのだろう。もっと簡単に言うと、「あのさ、この歌、襟裳岬について歌いたいわけじゃないんだよね」と強烈な違和感を覚えたのだと思う。
 でもって、じゃあおれはというと、吉田版より森版の「襟裳岬」のほうが断然好きである。やはり「北の町では〜」と「襟裳の春は〜」の歌いっぷりが好きだ。「コーヒーカップ」だの「くるくるかきまわして」だの「いじけることだけが生きることだと、かいならしすぎたので」だのといったところはどうでもいいものに感じる。
 おそらくは森進一の歌唱力、節回しの圧倒的な説得力の故なのだろう。そして、その演歌的な説得力は「北の町」と「襟裳の春」については説得できるが、「コーヒーカップ」については説得できないのだ。
 おれにとって「襟裳岬」は、だからいまだに北の地についての歌なのである。