幽霊と化け物

 日本でお化けと言われるものには、幽霊と化け物がいる。化け物は妖怪と呼んでもいい。中には、「ウチの奥さんの顔が〜」なんていう人もいるかもしれないが、ここでは家庭の事情は取り上げない。


 同じお化けでも幽霊と化け物はだいぶ違うように思う。
 ちょっとコムズカシイ言い方をすると、幽霊は精神的のようであり、化け物は物理的というか肉体的な感じがする。


真景累ヶ淵」という有名な怪談があるが、あれは幽霊とは気の迷い、心、神経(「真景」は掛けてあるらしい)のせいで、実際には存在しない、という解釈に乗っとっている。


 つまり、人を殺めたとか、死に至らしめる原因をつくったとか、そういう人が、罪の意識や自責の念を抱く。後味の悪さがどんどんふくらんで、のしかかってくる。
 そうして、その重い記憶がついには本人を錯乱せしめ、ないはずのものを見てしまう、ということのようだ。


 なるほど、合理的な解釈である。
 合理的なうえに、考えようによってはそちらのほうが怖い。


 自分とは別のところに、霊がきちんと(変な言い方だが)存在するより、自分の心が自分の心にのしかかってくるほうが、よほど苦しいのではないか。


 日本の幽霊は足がないとされている。
 円山応挙が最初にそう描いたからそうなった、という説もあるが、真偽のほどはよくわからないようだ。幽霊というのは伝承の世界のものだから、一人の絵師の事跡だけで簡単に変わるものでもない気はする。


 ともあれ、錯乱説を取るなら、足がない、というのもよくわかる。
 どこまで逃げても、罪の意識や自責の念はついて回るからだ。自分の心からは逃げられない。


 いやね、ホントのところはどうだか知らないよ。幽霊はいるのかもしれないし、いないのかもしれない。あたしごときに、そんなこと、わかるわけがない。


 応挙と幽霊というのも、ちょうどいい組み合わせのように思う。


 江戸時代の絵師の中では上品なほうであり、かといって狩野派のように将軍家や大名を相手にしゃちほこばっているわけでもない。絵には繊細な印象がある。


 これが同じ達者な絵師でも、葛飾北斎だとあまり幽霊は似つかわしくない。何というか、北斎先生、ぼうとした幽霊を描くにはパワフルすぎるのだ。


 北斎先生に似合うのは、やはり、幽霊より化け物である。



東海道四谷怪談」のお岩さんなのだが、なぜだか提灯お化けと化している。北斎先生の奇想爆発である。


 幽霊には洒落が通じない感じがするが、化け物、妖怪にはどこかユーモラスな感覚もある。北斎先生と水木しげるの影響だろうか。

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「今日の嘘八百」


嘘六百六十 幽霊が夏に出るのは、冬だと着ぶくれてみっともないからだそうだ。